クリスチャンと世間にとってのクリスマス
11/28の尾久キリスト教会の高橋武夫先生の説教の題材はルカによる福音書第1章46〜55節。イエスの母親であるマリアによる「マリアの讃歌」とも呼ばれる箇所である。題して「逆転劇としてのクリスマス」。クリスマスから数えて4週間前からを待誕節=アドベントと呼ぶ。
そもそも新約聖書は、それまで口伝だった信仰に正確を期すために文章化されたが、イエスの誕生についてマルコ伝だけは触れていない。これはマルコ伝の書かれた時期が早かったからで、当時のユダヤでは命日を祝う習慣はあったが、生誕を祝う風習はなかった。ローマやペルシャでは誕生日を祝う慣習があったが、初代教会は外国の慣習とイエスの誕生を一緒にしたくないという観点から、イエスの誕生日を教会で祝うことを禁じた。それが今のように教会でもイエスの誕生日を祝うようになったのはAD3世紀くらいからである。現代でも、クリスマスをめぐる世間の喧騒に対する反発はあった。著書を多く出していた東所沢教会の故山下真理先生は「ある日教会に電話で相談があった。それは『先生の説法付きで5万円会費のクリスマスパーティーを企画したい』という内容だった」という話で、もちろんお断りしたそうだ。日本ホーリネス協会でもクリスマス祝会の中止という動きがあった。このような動きに対して日本キリスト教団の小島誠志先生からは「いいじゃないですか。これだけ世界に影響を与える宗教家って他にいないんだし、祝う心はあるのですから」という発言で騒ぎが鎮火したことがあった。
話しを「マリアの讃歌」に戻すと、ここに書かれていることは社会的地位の逆転である。同じくルカ伝2章第31節には、幼な子イエスの宮殿への参詣が描かれているが、ここでもシメオンの予言はイエスの役割が逆転劇であることを示唆している。そして人が主に仕え、主が人に仕えるのも関係の逆転である。パウロは「貴方がたは代価を以って買い取られた」と言った。これは当時の世界が奴隷社会で、生産は奴隷によって行われていた。使役する人々は情報の入手によってのみ生きていた時代である。であるからして当時の人々は悪魔と偶像崇拝の奴隷であった、それをイエスの生命によって贖われたわけである。クリスマスは神の人間性奪取であり、この日は人間が神の資質を心に取り入れているのである。
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