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ルカによる福音書第15章第1〜7節「神の愛は偏愛か博愛か」

 8月21日の尾久キリスト教会の高橋武夫先生の説教。今日の題材はルカによる福音書第15章第1〜7節「神の愛は偏愛か博愛か」。異邦人の取税人と食事を摂ったイエス。それをパリサイ人の律法学者たちは「罪人と一緒にいる」と激しく非難した。しかしイエスは「100匹の羊のうち1匹が迷子になったら、99匹の羊を置いてまで探しに行く」と告げた。残る99匹を危険にさらしても1匹を救う。もちろん99匹には神の加護があるのかもしれないが。ルカによる福音書には3つの例え話がある。2つ目は無くした銀貨。また、ある女が銀貨10枚の1枚をなくして、彼女がそれを見つけたなら、周囲の女たちに『一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。3つ目は放蕩息子の話である。分け与えられた財産を自堕落な生活で使い尽くして戻ってきた息子を、父親が歓迎する話。いずれも「罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」という趣旨。

 三つの地名を聞くと強く反応する。その一つが鹿児島県の喜界島、牧師として4年間在任した。二つ目は茨城県の鉾田。ここは自分が育ったところ。三つ目は青森県の五所川原。ここは祖父の出身地。祖父は函館に出稼ぎに行って覚えた寿司の作り方を生かして、東京の浅草に出て「みやこ寿司」を開いた(有名な美家古寿司」ではない)。3階建ての店舗だったそうだが、太平洋戦争の空襲で焼失。結局は戦後に復興できず、寿司屋はそこまで。自分は三男だったが、この祖父にやたらと可愛がられた。兄弟の中で自分だけが成績がよかった。授業参観も自分の時だけに来た。そして学校の先生から親に「家でよく勉強しているの?」と訊かれると、親には「全くしていない」と答えて欲しいと頼んでいた。思い出すと、自分ながら自尊心が強く嫌な子だった。そんな自分に寄せられる祖父の愛情は、明らかに偏愛だった。ちょうど聖書で言えばヤコブがヨセフに寄せる特別扱いと似ている。神の愛はあまねく偏愛である。この愛を皆さんは伝えねばならない。


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