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タンザニア🇹🇿の4年間

高校時代の同級生がタンザニア連合共和国🇹🇿から大使の任務を終えて帰国したので慰労会を開催。大蔵省入省以来、さまざまな国際交渉の場に臨み、4年前にタンザニアに特命全権大使として赴任。幹事の住む鎌倉で会食しながら、タンザニア赴任期間のお話しを聴く。彼の話を聞いて、日頃馴染みのないアフリカ事情に興味を持ったので、私が調べたタンザニアの基本事項と合わせて、以下まとめてみた。
1️⃣そもそもタンザニアとはどこにあるのか。もちろん国名は聞いたことがあるが、アフリカ大陸のどのあたりにあるのかはパッとわからない。タンザニアとは東アフリカの赤道付近でインド洋沿岸。日本からはドバイやカタール経由で20時間。ケニア・ザンビア・モザンビーク・ウガンダ・ルワンダなどと国境を接している。大陸部のタンガニーカと、インド洋島嶼部のザンジバルで構成されている。建国60年で120の部族の集合体。人口は6,400万人で日本の半分だが、国土は2.5倍の広さがある。金・ダイヤモンド・レアメタルなど鉱物資源も多く裕福。霊峰キリマンジャロやビクトリア湖を有するため、観光客も多い。宗教はキリスト教40%、イスラム教40%、その他呪術などで10%を占める。公用語はスワヒリ語。英語は国語ではなく、中学から理科系などの理解に必要なので教えるが、生徒の多くが脱落。隣国ケニアは英国の直轄植民地であるのとは大きく異なる。タンザニアは国内で部族を越えた「国民」としてのアイデンティティーを確立するだけでなく、スワヒリ語こそ自立したアフリカ人の言語であるとして南部周辺国や地域共同体での普及に熱心に取り組んでいる。最近は、国内の裁判における言語をスワヒリ語としたため、各種の訴訟で不利となる外国企業の不安が広がっている。タンザニア(アフリカ大陸のタンガニーカ)はドイツの植民地だったが、第一次世界大戦後は英国の委任統治領、第二次世界大戦後は信託統治領となり、ケニアとは発展で格差が広がった。このため初代大統領となるジュリウス・ニエレレは、西側ではなく非同盟諸国の立場に軸足を置き、独立後も「ウジャマー」運動と呼ばれる集団農業政策を導入、中国の毛沢東とも緊密な関係を築いた。70年代にはアルーシャ宣言で正式な社会主義を掲げ、ソ連からも周辺国の民族解放戦争で支援された。因みにインド洋に浮かぶザンジバル(北のペンバと南のウングジャの2島、ウングジャ島中部西岸にストーンタウン)はタンガニーカから一定の自立を確保した共和国で大統領も存在(現在の大統領は、連合共和国第二代大統領ムウィニの息子で、前職は連合共和国国防大臣)。19世紀に海洋帝国を築いたアラビアのオマーン出身のスルタンが一時宮殿を設けていた。その後世紀末に英国の保護領となり、第二次世界大戦後にタンガニーカに続き1963年に立憲君主国として独立を成し遂げたが、翌年初めに武装蜂起による社会主義革命が勃発し、スルタンや香料のプランテーションを運営していた富裕層などが国外に逃亡。タンガニーカ側と連合して現在に至っている。中心市街地ストーンタウンには、アラブ商人が象牙とともに主要商品としていた黒人奴隷の市場跡があり、街自体もアラビア風でスルタンの宮殿を含めてユネスコの世界文化遺産に登録されている。映画『ボヘミアン・ラプソディー』で生涯が描かれた英国ロックバンドのボーカリスト、フレディ・マーキュリーはストーンタウンで育ち、目抜き通りにある彼が住んだ建物が観光名所になっている。また、昨年のノーベル文学賞受賞者アブドゥルラシド・グルナ氏は、社会主義革命を受けて英国に逃れた移民。ザンジバルはこのように国際性豊かな島なので、海洋リゾートに欧米から観光客を集め、国際音楽フェスティバルや映画祭などが毎年開催されている。因みに、1964年にタンガニーカとザンジバルが連合する際に、東アフリカのこの地域が「アザニア」とローマ時代に呼ばれていたことも勘案して(紀元1世紀にエジプト在住のギリシア人が著したインド洋ガイドブック『エルトゥラー海案内記』)、「タンザニア」の国名が決められたとされている。
2️⃣タンザニアではコロナが大流行。当時のマグフリ大統領が、ブラジルのボルソナロ大統領と同じく、コロナ流行を否定・軽視。マスク着用も禁止、ワクチン確保もせず。従って実際の患者数もわからず。その当の大統領も死去。死因は心疾患とのことだが、コロナ感染だったのではないかとの風評も立った。マラリアを中心に致死率がより高い怖い疾病はいくらでもあり、むしろタンザニアを含めてアフリカ諸国はから見たら新型コロナなどよりも、マラリア対策支援が手抜きになることを懸念していた。新型コロナ患者は、医療機関も急増する謎の「肺炎」などの他の死因で処理していたものと推測されるが、もはや記録がないため実証は不能。各国大使館は横の連携で、ワクチンを接種して防衛。日本に生きて帰れないことも覚悟したとのこと。
3️⃣仕事の面では大使館員数は、警備や電信・会計などを含めて日本人が13名程度(常に2~3人が健康管理のため一年に一度くらいの頻度で帰国中)で、地元調査、官用車運転・営繕・清掃などを担当するタンザニア人スタッフも同じくらいの人数。従って総勢30名弱で。大使の職務は夫婦同伴でないとできない仕事。ホームパーティなどの交流が重要となる。そこで夫人が大活躍する。料理作りに、英語でおもてなしも大切。
4️⃣ タンザニアでの食事は、通常は公邸料理人の料理を食べたり、スーパーで食材(和食ブームの英国から醤油などが輸入)を購入して奥さまと自炊。現地の料理と言っても、タンガニーカでは約120の部族の母語がバラバラなのと同様、主食がコメ、トウモロコシなど様々。トウモロコシなどの穀類にひいて粉末状にしてお湯で固めた「ウガリ」(蕎麦がきのような見た目)が地元の家庭での定番。コメはジャポニカによく似ていて日本人には有難いところで、特に内陸南西部のムベアが生産地として有名。キリマンジャロの麓で長年JICAが生産支援に大規模に取り組み成果を挙げている(アフリカ特有のバオバブの樹がなければ、日本の典型的な米作地域の風景)。美味しい米なので、ふりかけや海苔とも合う。日本への輸出の働きかけも行われているくらいである。先進的なザンジバルでは、ザンジバル・ピラフなどアラビア諸国のリゾート同様で、イタリアレストランなども多数ある。
5️⃣ロシアのウクライナ侵攻では日本政府の方針として、国連決議でロシアを非難制裁する方向にタンザニア政府を説得した。しかし結果的にはインドと同様に棄権の態度を取った。これはどちらも敵に回したくないグローバルサウス全体の傾向。これからの世界は欧米・日韓豪などの自由主義陣営、中露などの専制国家、そしてグローバルサウスの三極に分かれてゆくだろう。そのグローバルサウスに大きな影響力を持つのがインド。インド洋沿岸地域は歴史的にもインドと交流が深く、これからの世界は、日本としても一層の関心をインドに向ける必要がある。タンザニアにおいて、金融や流通、貿易におけるインド系ビジネス社会の存在は大きく、日本から進出を図る企業にも、インド系企業との連携を視野に入れておくことをアドバイスした。また、毎年のようにインド海軍が親善目的で艦隊をダルエスサラーム港に派遣し、存在感を誇示。そもそも古代からインド西部のグジャラートはアラブ・欧州と中国との交易拠点であるばかりか、アフリカとの交易も盛んで、現在のタンザニアで活躍するインド系ビジネスマンの家族の多くも同地域出身で、頻繁に往来している。


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