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大下英治「華麗なる鳩山一族の野望」

大下英治「華麗なる鳩山一族の野望」(徳間文庫)。戦後日本の首相である鳩山一郎、その息子である威一郎、孫である由紀夫と邦夫の政治家としての名家の系譜である。結果的には首相を目指した邦夫は報われず他界。欲のない由紀夫が首相に昇り詰めた皮肉。私見から言えば、鳩山由紀夫は首相外交としては最悪。沖縄基地問題で出来ない約束をして紛糾、慰安婦問題における韓国での土下座など、取り返しのつかない過ちを犯している。名家ゆえの人の良さが裏目に出ていた。
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1️⃣日本の名家・鳩山一族の日本政治史との歴史を追う。近年では総理大臣を務めた兄・鳩山由紀夫、他界してしまったが大臣を歴任した弟、・鳩山邦夫の兄弟の印象が鮮烈。ここでは兄弟目線で、戦後の日本政治史を振り返る。遡って、由紀夫と邦夫の祖父である鳩山一郎。日本民主党党首で最も戦後の首相に近い存在だったが、GHQの公職追放令に遭って、党首の座を親友であった吉田茂に譲った。二人の間では、公職追放令が解けたら一郎が党首復帰の約束だったが、吉田茂がこれを守らなかった。ここから両者の対立対決が始まる。長い主導権争いの後に、吉田茂は「バカヤロー解散」や、懐刀の佐藤栄作の「造船疑獄」で指揮権発動などを経て、退陣に追い込まれた。こうしてようやく一郎に首班の座が巡って来た。友愛精神をモットーに、警察予備隊や防共などで憲法改正を目指した。第三次内閣の時に決死の覚悟で訪ソし、フルシチョフ書記長と北方領土問題について協議した。この訪ソを一郎は引退の花道とした。
2️⃣ここで本来であれば、一郎の息子であり、由紀夫と邦夫の父である威一郎が一郎の後を継ぐべきだった。しかし大蔵官僚として、政治家にタカリという印象しか持っていなかった威一郎は、一郎の出馬懇願に首を縦に振らなかった。威一郎はブリヂストンの創業者である石橋家から安子を嫁にもらった。このことは鳩山家が財をなす一因ともなった。大蔵省で事務次官まで務めた威一郎だったが、退任後にその能力と見識を買われて政界入り。福田赳夫内閣で外務大臣を務めた。父親の威一郎を追うように、由紀夫と邦夫も国会議員に当選した。
3️⃣ 物静かで勉強熱心な兄、それに対して弟はヤンチャで勉強嫌い。そして邦夫は幼ない頃から政治家志望だった。祖父である一郎=オーパパへの憧憬に発していた。東大法学部を出た邦夫は、田中角栄秘書から出発した。S48に高見エミリーと結婚。S51に衆院選を東京8区で新自由クラブから出てトップ当選。その後に自民党に転籍してS54に落選。S55大平内閣不信任決議解散選挙で議員復帰。S62に売上税5%に反対して、中曽根総理に指弾され、党除名寸前のピンチに。所属の経世会は小沢派と反小沢派(小渕派)に分裂。宮沢内閣不信任案が決議されたタイミングで自民党を離党。政局は細川連立政権→羽田内閣→村山内閣と変転。新進党が旗揚げする中、邦夫もその動きに参加した。そして兄弟で足並み揃えて、政権の中枢に参加。しかし民主党左派の動きについて行けず、兄と袂を分かつ。東京都知事選に出馬して石原慎太郎に敗れた後、自民党に復党して、福田康夫・麻生太郎内閣で続けて大臣を歴任。しかし日本郵政の西川善文社長更迭問題で総務相を解任される。志半ばで2016年に他界。
4️⃣ 内向的な子供だった由紀夫は、人づきあいや政治の世界を好まず、東大工学部に進んだ。しかしアメリカ留学中に、日米の愛国心の差を強く感じた。これが由紀夫の政治家への転身のきっかけとなった。宝塚女優である幸と結婚。そして室蘭などの北海道4区を引退する三枝三郎から地盤を引き継ぎ、S61当選に当選し田中派に参加。政界はリクルート事件から激動。竹下内閣内閣が支持率3%と低迷し、首相は宇野宗佑から海部俊樹に移った。この間に北海道開発庁政務次官務めたものの、武村グループとして10名で離党して「新党さきがけ」で、日本新党と細川連立政権を立ち上げる。そこから小沢一郎と武村正義の反目、羽田孜そして村山富市と短命の連立内閣が続く。鳩山新党の設立を目指して、さきがけ離党。菅直人というパートナーを得て、民主党を設立。そこからは鳩山・菅・小沢のトロイカ体制。そして遂に2009年の第45回衆議院議員選挙で民主党が第一党となり、党首である鳩山由紀夫が首班指名を受けるに至る。

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