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「笑いとは教養だ」

 以前、職場で同僚女性N氏と恋愛について話していたとき、こんなやり取りがありました。
 ふと、西野カナの「会いたくて会いたくて」(会いたくて会いたくて震える、というフレーズで一世を風靡した例の曲)の話になった時のことです。
 
 N氏:「震えるほどつらいって比喩なら理解できるけども、実際に体が震えるってことなら、私にはちょっと理解できないなあ。『勝手にふるえてろ』って感じですね」
 八重さん:「(思わず吹き出して)『背中を蹴りたく』なるかもしれませんねえ」
 N氏:「うーん、教養ですねえ(と笑う)」
 
 この会話の面白さ、わかりますか。『 』で括られた言葉は小説家「綿矢りさ」の作品名から来ています。つまり、N氏が発した『勝手にふるえてろ』という作品名に、八重さんが反応して「蹴りたい背中」という作品名から『背中を蹴りたく』なるかも、と返したのです。それに気づいたN氏が「教養ですねえ」と笑ってくれた、という話ですね。
 
 このように笑いを生むには互いに共通する教養が必要になります。
 そう難しいことは言ってなくて、時事ネタやモノマネで笑えるのも共通知識・共通理解があるからだ、という程度のことなんです。
 ナイツの漫才に「ヤホー」のネタがありますよね。「Yahoo!」を「ヤフー」と読むことを知っているから面白いわけです。そもそも「ヤホー」だと誤解している人には、当たり前の発音に聞こえてしまうので笑ってもらえません。
 ダジャレも同じ。ラジオ局のマンガ「波よ聞いてくれ」で『ふ、ざ、ケルナー』と叫び、背景にワインが浮かぶ場面。ケルナー種というブドウ品種と掛けてます。八重さんは親しい人と話してて笑っちゃうようなとき、『ウケるね・ソーヴィニヨン』と言うことがあります。これもカベルネ・ソーヴィニヨンというブドウ品種が元です。語彙力、これもまた教養ですね。笑いとは教養なのです。

 そういえば、中学国語ではよくオリジナル枕草子を作ります。あれを作れること、そして読んで楽しめることにはまさしく教養が必要です。「春はあげぽよ、梅雨はさげぽよ」とか言われてクスッとするのは教養があるということです。
 国語だけではありません。映画のタイトルや台詞をもじっていることに気づく。初対面の人と出身県の名物について盛り上がる。バーで状況に応じたカクテルを味わう。与党と野党、他国と自国の比較をする。水素水などの「ニセ科学」を見抜く。星を輝き方に合わせた宝石に例える。花言葉を踏まえて花束を贈る。料理をおいしくアレンジする。……他にも、クラシックやアニメの音楽に関する教養があれば、テレビのBGMが何の曲なのか判断し、そこに秘められた制作側のおふざけに気づくことさえできるでしょう。
 あるいは、藍、群青、空色、縹、瑠璃、コバルトなど青の名前を知ることで、世界の見え方が変わってグラデーションとして目に映るかもしれません。
 このように、教養は笑いだけに作用するものではありません。教養は笑いを豊かにするのみならず、人生をも豊かにしてくれるのです。素晴らしきかな、教養!


※ついでにだから……
綿矢りさ『蹴りたい背中』を紹介。

 これは青春ものだ。恋愛のようで恋愛ではない、いじめのようでいじめでもない。爽やかかどうかも怪しいが、それでも読後に残るある種の爽快感は間違いなく青春もののそれだ。空色の表紙は内容とたがわずに美しい。
 誰にでもある「思春期の自意識の痛さ」が過不足なく現実よりもリアルに描かれているように思う。なんとまっすぐに捻じれていることか。
 【さびしさは鳴る。】から始まる冒頭1段落だけでも、ぜひ読んでほしい。あまりにも深く鋭く胸を刺す、その1段落のためだけにでも読む価値がある。
 17歳でデビューした作者は、この作品で芥川賞の受賞最年少記録(19歳)を樹立する。さもありなん。だって、この書き出しは声に出して何度でも読み返したいくらいだ。
 もしかしたら図書館や図書室に置いてあるものは、表紙やしおりがもうすっかりボロボロかもしれない。だが、中身は依然色あせていない。頼む、読んでくれ。

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