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世間の障碍者に対する偏見

私には中学時代から付き合いのある精神障碍者の友人がいる。
彼とは年2.3回は必ず会う中で、今年の年の瀬にも会う予定だ。

彼と出会ったとき、彼はまだ障碍者ではなかった。
つまりは障碍者だという診断がまだされていなかったということだ。

思い出してみると、彼はどこか怒りやすい部分があり
彼の周りに近づこうとする人間はいなかった。

そういう部分に気づいた悪意のある人間(思慮分別の不十分な中学生なら仕方ないという人もいるかもしれないが)が彼をからかう。
そして彼は我慢ができずに怒る。

この繰り返しで彼は次第に孤立していった。

私はそれまでの数々の転校の経験から、
どんな人間にも偏見なく接するべきだというある種の正義感で
彼と関わり続けた。

客観的にみると、変な奴に近づく物好きな人間に見えただろう。
あるいは、障碍者ぽい奴にやさしくする自分に舞い上がっている偽善者のように見えただろうか。

彼は歴史が好きな人間で、特に戦国オタクであった。
彼は学校の定期テストこそできなかったものの、
好きなことに対する熱量は見習うものがあった。
また性格的にも馬が合ったので彼とよく時間を過ごした。

そんな彼があるとき精神科で、自分が障碍者だと診断されたと私に告白した。

私は特に驚きもしなかった。障碍者だとして、今までの彼と何が違うのか。

少し前は今のように障碍者ではなく「障害者」という表現が一般的であった。(最近では「がい」と平仮名で書くこともあるそうだ)

その身に何らかの「害」を持ち、同じ人間とは思えないような障害者にはなるべくかかわらない方がいい、という価値観がなんとなくあったのではないだろうか。

今でこそ、多様性の時代の波に呑まれて「碍」などという見慣れない字に変わったが、恐らく大半の人間はそういう価値観を変わらず持っているものだと思う。

私の友人の場合は、外見上から障碍者とは判断することはできないため、傍から見れば障碍者と一緒にいるとは思われないだろう。
私はそういう周りの視線がないから、彼と付き合えるのだろうか。

ここでこんな疑問が湧いた。もし彼が身体障碍者、または明らかに障碍を持っているとわかるのだとしたらどうであろうか。

ここで一つ例を挙げたい。
YouTubeshortでこんな動画を見た。
明らかに歩き方から、障碍者とわかる男性が歩道を手前に向かって歩いてきた。その数秒後、駐車場からバックした車に衝突され、何メートルか車道に飛ばされ、起き上がれなくなったところで動画は終わった。

まず感じたのは、車の運転手がなんて不注意なんだという疑問と憤りであった。わざわざ1short動画に対して感情的になっていてもしょうがないのは理解している。しかし、コメント欄を見た時固定されていたコメントにえもいわれぬ気持ち悪さを感じた。

以下コメント
「なんかこういうやつ見ると、ムカつく」グッド数3300程度

「こういうやつ」は轢かれてしまった障碍者のことである。

「ムカつく」とは本当にその言葉の意味で発せられたのであろうか。おそらく本来の使われ方なら、「あの先輩・上司ほんとムカつくなあ。」とかだろう。そういうことを言う時はたいてい何か気に食わない態度を取られたとか、嫌な出来事があったとかだろう。
あるいは特に考えもせず、なんとなく不快に感じたことで口癖のように言ってしまっている人もいるかもしれない。

ではコメントをした本人や共感をした多くの人は、自分とは関係ない、歩くのに少し不自由する障碍者になにを感じたのだろうか。

私は先述したように、「なんとなく不快感を感じたこと」が「ムカつく」という言葉の引き金になったのではないかと思う。

ではなぜ不快感を感じるのか。
別に障碍者でない人を道行く先で見たところで特に快いと思うことはない。
そういう不快感はいつどこから生まれてくるのだろうか。

小中学生時代を思い出してほしい。特別学級と称した、障碍者を「特」にほかの生徒から「別」れさせた「学級」というものがあっただろう。6.7歳のころから、彼ら障碍者はまるで異なる生物であるかのように扱われる。

大半の生徒はそういう彼らの存在を認識しつつも、関わることはない。そして、なんとなく無理に関わってはいけない雰囲気を感じる。そしていつしか忌避するようになる。

大人たちの本音としては、特別学級を作らなければ、彼らには障碍を持たない生徒と同じように教育を受けさせることが困難であるため、障碍を持つ彼らを一緒くたんにしてまとめて効率的に面倒見てやる環境を整えるほうが都合がよいといったところだろうか。

私は別に特別学級の存在を否定するわけではない。しかし、障碍者を決して良くない意味で特別視するという価値観はこういう学校の環境からすでに形成されはじめているのではないだろうか。

私も例にもれずそのような環境に身を置いてきた一人として、「ムカつく」というコメントは理解できてしまう。しかし、それは本音にしたくない。

でも私には彼ら障碍者に対する色眼鏡がいつの間にか、かかっている。言うまでもなく、小学生の時からだ。
現実のようにこのメガネは簡単に外せるものじゃない。
かけ続けてしまい、もはや身体の一部になってしまっている。

ここで、遅まきながら彼が明らかに障碍者だと分かる場合、私は彼と友達付き合いができるだろうかという疑問について自分なりの答えを出したい。

「彼」ならば答えはYESだ。
彼の体が不自由なら、私が彼の足となりどこにでも連れて行こう。
彼が自分で歩くことができて、彼と私が奇異の目に晒されようと私は気にしない。
とはいえ、善意100%とは言い切れないかもしれない。
障碍者である彼を憐れんで手を差し伸べている私自身に
陶酔しているかもしれない。

私は「彼」が「彼」だから今でもたまに会いたいと思うのだ。
これは彼が障碍者であろうとなかろうと同じことだ。

障碍者であるなしにかかわらずその人柄を好ましく思うから、
友人として時にはより深い関係になる。
しかし、見ず知らずの他人の場合を考えるとやはり障碍者とそうでない者に抱いてしまう感情に差があるのは私だけなのだろうか。

YouTubeなどのメディアでは「障碍者」というのは一つの再生数がとれるコンテンツとして扱われている。メディアではコメンテーターは当たり障りのない、障碍者に配慮したいかにも優等生のような発言をする。私はそれは本当に本心なのか疑わしくてならない。

そんな中、私が感嘆したのは、宮崎駿監督がドワンゴ社の人工生命育成プロジェクトの動画を見て「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます。」といった発言だ。

彼は身体障碍者の友人を例に挙げ、憤りを露わにした。
彼は「生命に対する」と表現した。
一般的な感性の持ち主なら、「障碍者に対する」と言うだろう。

そうか、彼は人間などという狭い世界ではなく
生命という途方もなく広い世界に目が行き届いているのか。
彼の感性と視野の広さに驚かされた。

私は彼のような視野の広さは未だ持ち合わせていないし、その高みまで到達することもかなわないのかもしれない。だが、せめて自身に潜む当たり前を疑って、いつの間にかかけていた眼鏡のレンズを透明に近づける努力しよう。








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