見出し画像

私の中の根本的な苦しみ。

悲しいことがあった。悲しくて、悔しくて、腹立たしくて、人間不信を悪化させるような出来事。
あまりに苦しくて、久しぶりに自分を傷つけたくなるくらいにはしんどくて、そういう時はどうしても自分を責めてしまう。モクちゃんは私が自分を責めると悲しそうな顔をする。

どんなに自分が悪くなくても、仮に100%向こうが悪いとしても、それでも自分を責めてしまう。苦しい気持ちは無くならない。これが生きづらさなのだろう。きっと同じ状況下でも、悲しみより怒りが勝る人もいるだろうし、ここまで心臓が圧迫されたような苦しみを感じない人もいるのだろう。自分が悪いと責めることもなければ、気分転換がちゃんとできる人もいる。私はきっと生きることに不向きなのだ。それが一番悲しい。
気分転換して、楽しい気持ちになって、思い出したとしても怒りで迎え撃ちたかった。でも私にはそれができない。心のつくりの問題なのだと思う。私という人間は、そういう構造ができていない。

昔から人一倍傷つきやすかった。傷ついていることが周りに知られると鬱陶しがられてしまうと思い、それすら隠すように生きてきた。嫌われないよう、疎まれないよう、必死で笑って生きてきた。いじめられても虚勢を張って、本心とはかけ離れた言葉を紡いで、泣きたくても泣かずに生きてきた。
周りもみんなそうだと思っていた。みんな痛みを抱えているから自分も我慢しなくちゃいけない、そう思って頑張っていたのだ。
でも実際、苦しみは一瞬ですぐに忘れられる人間もたくさんいると知った。気分転換のうまい人は、辛いことや悲しいことを忘れるのが上手だ。生きるのが上手なのだ。

同じような悲しい出来事があっても、生きるのが不向きな私と、生きるのが得意な人たちでは、継続する苦しみがちがうと思う。私は無駄な苦しみを長く味わっている。本当に無駄としか形容できない時間だ。
きっとそれらをうまく消化できれば、薬に頼ることもないのだろう。

生きるのが楽であれば私だって生きたいと思えるのかも知れない。
でももう30年以上こうやって生きてきた私には、生き方や考え方を変えるのは容易ではない。メンタルの薬だって人生の半分以上処方され、それでもいまだに苦しみながら生きている。ばかばかしいと思う。悔しくて泣きそうになる。

失敗や、後悔や、悲しみや苛立ちや、何もかも人生の勉強だと前向きに捉えることができない。そんな悲しい世界なら早く終わらせてしまいたい。
人生がそれぞれ平等にしあわせであるなんてちっとも思えない。どんなに悪人でも長生きしてそれを反省せず死んでいくものもいれば、罪もなくあっさり死んでしまう人間もいる。
私はここまで生きてきて、楽しいこともたくさんあったけれど概ね思い出すことは苦しいことが多い。モクちゃんが居て、猫たちが居て、幸せなはずだけれど、それでもまだ過去の苦しみが拭いきれない。

これから先にひとつも嫌なことが起こらないのならば生きていてもいいと言えるかも知れない。
でも今の私には、あまりに生きづらいこの世界で生活を続けることは、とてもつらい。難易度の高すぎる試練なのだ。

今の辛いことが清算されても、きっとこころの中で黒い何かとして積み上がっていく。何かまた苦しいことがあった時に、その積み上がったものに押し潰されるだろう。今までも幾度となく経験してきたその苦しみが手にとるようにわかる。一生、きっと死ぬまで、この苦しみから解放されることはない。
私はこの先も、こうやって生きていくのだろう。


やどり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?