「~べき」をやめたら楽になる
私はもともと無計画な人間で何でも思いつきでやってみる。
バンジージャンプが好きだけど、登って降りられなくなって、跳ぶというより落ちてみる。一瞬思考停止状態。でももうここまで来たんだし退路もないから進めな感じ。人生もまさにそんな感じ。
詰めが甘いとか無鉄砲とか散々人にも言われてきたし、仕事も趣味も恋愛も最長で四年ぐらいのサイクル。
だからオリンピックの年になるとなぜかわりといつも違う場所にいたり、ガラリと生活が変わっていたり、その予兆の年だったりもする。
親には何をやっても中途半端と言われるし、自分もまだ何者にもなってない気がして、計画立てたり、ToDoリストを作ってみたり。
でも今度はそれが負担になるし、できない自分に嫌気さす。
例えば早寝早起きの規則正しい生活を送ろうとして起きれなかったらすごく時間を無駄にした気がして朝から凹んだり。
アファメーションとかも苦手で、夢や希望を明確化して引き寄せよう!なんてのは苦手。「こうすべき」みたいになると、途端にやる気は失せるし、精神的に負担になる。
そんなわけでもうそういうのはやめた。
今は仕事でオンライン授業してるから、その時間には間に合うようにはするけど、それ以外は起きる時間も気にしない。昼も眠ければ昼寝する。そして寝過ごしてしまっても、そもそも「すべきこと」がないから「あーよく寝れた!幸せだ!」と昼から布団で寝れる幸せを味わっている。
私は昔から遅刻の常習犯で、その時間に行動するためにはこれぐらい前に家を出ればいいとかの計算もできなくて、その約束の時間に家を出たりする。だから私のそんな習性を知っている友だちなんかは、私にだけ集合時間を早めて伝えてきたりする。
大学の講義も自分が学生の時は一限目がどうしても出れなくて全部落とした。自分が教える側の時は、これまた学生が授業前に授業だと教えてくれたり、スケジュール管理してくれて、何とか授業ができていた。
それでもいつも遅刻ギリギリか遅刻。学生はそれにも慣れている。
ある時、私がめずらしく十分前に着いたら、教室にほとんど誰もいない。始業時間ギリギリでみんなぞろぞろやって来て、先に来ていた私の姿を見るや、見えるはずがないものを見た的な顔を一斉にされたことがある。
そんなわけで私はいつも出遅れる。
朝から行動しようと思ったら昼になるし、昼からと思ったら夕方になる。
昨日も、運動不足だから少し歩こうかなと思ったけれど、気づいたら外は薄暗くなっていた。夜は猪が出るから遠くまでは行けない。すぐ引き返せる範囲で徒歩10分の海まで来たら、そこはすごく綺麗な黄昏スポット。私のお気に入りの場所になった。
そして今日もまたそこに行こうと思った。
本当はもっと早く行けたけど、近所のばーちゃんと立ち話をしてたから出遅れた。
私の一人旅の時のパターン。行きたい場所とか決めないで、適当に気のむくまま、そこで出会った人の情報で行き先を変えて、攻略本のないRPGみたいな感じ。
でもそもそもが人生は巨大なRPGみたいなもので、適当に歩いたり立ち寄った村で村人と話したりしていたら、次の行き先も見えてきたりする。きっと私は攻略本を見て効率よくレベル上げするタイプじゃないってだけで、村人と話したり行き当たりばったりが好きなタイプ。
ゲームの楽しみ方はそれぞれだ。
道端で会った近所の92歳のばーちゃんは「ここはいい島だよ」と言った。
裏に住んでるというばーちゃんは、夜、私が今ヤドカリしてる古民家に灯りがついてて嬉しいのだと言う。
「この辺りは空き家も多くてね。夜この家に灯りがあるとほっとするんよ。ずっとおってくださいね」
「ここにいてもいいんだよ」と自分がほしい言葉をくれた。
正直、逃げ出すように島に来たから、その言葉を聞いただけで来てよかったなと思えた。ただここに住んで毎晩灯りをつけてるというだけで、誰かの喜びになることもあるんだなと思った。自分は何も成してない中途半端な人間じゃなくて、私は私でいいんだなんて思えてくる。
「すべき」が何でストレスかというと、それができない自分が不足感でいっぱいの人間になってしまうからだ。
ToDoリストもほとんどこなせないので、できたことよりできないことがいっぱいで、明日にしようと後回しにすることで停滞感を味わう。
それならいっそ「すべき」「やらなきゃ」をやめて、攻略本を手放して、ただ私なりの楽しみ方でゲームを進める方がいい。
だから今日も出遅れたのではなく、私のタイミングで歩いて、ちょうどいいタイミングでばーちゃんに遭遇したのだ。
その後も、途中で畑のボスに遭遇。
焚火がいい風情だった。
そこでも話してすっかり日も暮れ一番星が出ている。
それでも海に行ったらそこにも人がいた。
昨日は人がいないから海に向かって歌ってたけど、別に誰もいない海で黄昏ながら歌う「べき」もないし、せっかくだから話しかけた。
相手は中学生か高校生ぐらいの男の子。
老人ばかりのこの島で若者と会話するのは貴重。
「いい島だね」と言ったら「まあ、時々はそう思います」と彼は言った。
そして漁港に戻る船を見て、あれは何かと聞いたり、島の人が優しいという話をしたり。
「いい島だよ」と私が言うと「そうですね」と今度は彼も力強く言う。
私は余所者だからここのすべてが新鮮で、そんな話を聞くことで彼もまた改めて島の良さを知る。
どこにいても余所者な私は居場所がないんじゃなくて、そこにいる意味があるんだと思う。ドラクエでいうと酒場にいる旅人との会話みたいな。
その土地の人じゃないからこそ、当たり前が当たり前じゃないという情報を与えることができる。
彼もきっとあの92歳のばーちゃんみたいに「ここが一番いいところ」ってやっぱり思って、空き家に灯りをともす一人になるかもしれない。
もしくは島を出たときに「島はいいところだったな」と改めて思うのかもしれない。
彼にとっての私は旅人Aだけど、もしかしたらそれもまた彼に必要な会話だったかもしれない。
そう考えたら全ての人が今いる場所がいるべき居場所。
以前、パン工場で働きながら、お金がたまると見知らぬ場所に旅に出て、また戻って働いてという日々があった。あれも四年ぐらいだったけど、単調なレーン作業をただ黙々としていると、一生自分は同じことを繰り返すだけの日々なのかなんて何となく凹むこともあった。
でも同じ日々は続かない。すべては変化するものだから。
むしろ振り返ってみれば、当たり前にいたその場所にもう二度と戻れないなんてことばかり。
だからこそ、今いる場所は今だけだから、大切に日々を過ごしたい。
今私のたった一つの「べき」は、すべきをやめるべきってこと。
計画性なくて家計簿つけるのも苦手だけど、そのかわりあまりスーパーに行かないようにして、冷蔵庫の中の食材がほぼなくなるまで、あるもので何か作るってことをやっている。
前は食材が減れば不安になったけど、今は少ない材料で工夫するのは楽しいし、難易度が上がるゲームみたいだ。
なくなれば冷蔵庫掃除ができるし、ロスも出ない。
それにそこに不足を感じなくなると不思議と冷蔵庫のものが減らない。むしろ増えていく。近所の野菜をもらったり、最近は隣のかあさんからもらいもののおすそわけなどの連続コンボで、ゴーヤ、鯛、ハンバーグ、巻き寿司をもらった。むしろ消費に追われるぐらい。
こんなふうに計画性なくてもなんとかなる。
そして負担にならない範囲でできることはやる。
スーパー行かないようにってのは出遅れがちで行くこと自体やめることもある私にとっては苦じゃないし、工夫して自炊するのも楽しく負担もない。
今日すべきことは特になかった。ただやれることをやった。そしてたまたま会った人と会話した。
中ボスすら倒してないし、ただ付近をうろついて、遭遇した人と会話したり、少しレベル上げしただけ。
でも今日のゲームも楽しかったし、満足感を得られるのが一番。
今日も良い一日だった。