見出し画像

探偵file 008-湧別アイヌ「インガルシの戦い」そしてその怨念が…

ガンボウロックス探訪

湧別アイヌ「インガルシの戦い」そしてその怨念が…

遠軽町のランドマーク「瞰望岩」



著者のバイクとがんぼう岩
岩肌が気になります
えんがる公園の看板とがんぼう岩

「瞰望岩」は「湧別川」の左岸に広がる「河成段丘」から、川に向かって突き出ている巨大な岩塊。
「火山角礫岩」でも特に硬かったため,湧別川の「側方侵食」を免れたらしい。瞰望岩周辺には縄文時代から遺跡が連綿と遺されており、古代からこの巨岩がこの地域のランドマークであったことが窺える。
瞰望岩は,アイヌ民族の古戦場として、またカムイノミなどの儀礼も行われた場所であったと伝えられています。
アイヌ語の「インガルシ(見晴しのよいところ)」が転化して、町名遠軽(えんがる)の由来となったらしい。

遠軽町

今回の調査は、ゴールデンカムイの聖地のひとつ有名な「網走監護」の探訪が目的だが、漫画のフィクションストーリーではないモノホンのアイヌを調査している過程で、これは見ておかないとということで、このガンボウ岩を尋ねたのだ。
の為に立ち寄った遠軽町は、北海道北東部,湧別川の中・上流域にある町。南西部は大雪山系の一部をなし,広く山林に覆われる。北東部の湧別川およびその支流沿いに平坦地が広がる。 1934年町制。 2005年生田原町,丸瀬布町,白滝村と合体。地名はアイヌ語のインガルシペ (見晴らしのよいところの意) に由来。 1897年秋田県,山形県,新潟県各 200戸の入植により開拓。町の北東部の湧別川沿岸は肥沃な畑が多く,かつてはジョチュウギクとハッカを主産物としたが,1956年集約酪農地域の指定を受けて酪農が発展。野菜,工芸作物の栽培も行なわれる。山地では木材を産し,製材業も立地。生田原温泉,瀬戸瀬温泉,丸瀬布温泉などの温泉地が点在する。南西部の湧別川と支湧別川の流域に分布する白滝遺跡は国指定史跡。 JR石北本線,国道 242号線,333号線,450号線が通る。面積 1332.45km2(境界未定)。
人口 1万9241人。
遠軽町ホームページより

アイヌ文化

漫画、アニメ、映画と大人気を博したゴールデンカムイ。アイヌをキーワードに幕末から明治の日本をリアルにそしてファンタジー溢れるストーリーで多くの人を魅力している。今年は、そんなゴールデンカムイの聖地探訪調査と合わせて、「アイヌ文化」についていろいろと掘り下げて調査して見たいと思う。

さて、今回は、そんなアイヌについての探偵file 調査である。
アイヌ民族は、同胞間に於ける戦闘行為が多い民族であり、幾多の壮絶な戦いの中に「インガルシの戦い」という伝説がある。
血気盛んな十勝アイヌが、サケマスなど食料に困らず、豊かにそして穏やかに暮らしていた湧別アイヌ部落に攻め入ったアイヌ民族同士の戦いが起こったのだ。本地域を拠点としていた湧別アイヌも果敢に戦ったが、抗戦的で武力で勝る十勝アイヌにおされて、最後の拠点として「瞰望岩」に籠城したという。しかし、ついに攻め落とされんとするまさにその時に、眼下を流れる湧別川が大氾濫、大洪水を起こして攻め込んできた十勝アイヌは濁流にのまれ、湧別アイヌはかろうじて生き残ったという逸話が語られている。

松浦武四郎 著書

安政5(1858)年、「北海道」の名付け親である松浦武四郎は,著書『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(中)第27巻西部由宇辺都誌』において「インガルシ 右の方高い岩が一つある。 (中略)その岩の名前は、むかしクスリ(釧路)、トカチ(十勝)などのアイヌの人々が多くこの場所へ軍に来たときに、皆この岩上から方々を眺望したことに由来する。よってこの名前がついた。インカルウシはアイヌ語で物見のことを云う。」と記載していて、伝説ではなく史実である事が伺える。

戊午東西蝦夷山川地理取調日誌

本地域は、明治の開拓期以降、洪水などの水害に悩まされてきた地域であり、伝説「インガルシの戦い」は、現代の遠軽に生きる人たちにとって自然災害に対する教訓にもなっているらしい。また、アニメ「機動戦士ガンダム」のアニメーターとして知られる安彦良和氏は遠軽町出身で、あの「ガンダム」の「ガン」は、瞰望岩から取ったというまことしやかなエピソードもある。

何となくがんぼう岩に似てるような

遠軽の歴史

遠軽の開拓の歴史は明治29年、キリスト教主義による理想郷建設を夢見た「北海道同志教育会」が設立され、明治30年、学田農場の開墾事業に賛同した新潟、山形の有志者達の入植が始まりです。
最初の年は不幸にも夏作以外は全国的に不作であり、食糧・物資とも十分に配付できず、多くの入植者は約束と違うなどの理由で湧別方面に逃走してしまい、最初の移民は失敗してしまいました。
その後も、4度の移民募集が行われましたが、打ち切られ、この地に留まった入植者たちは、わずかな空き地にそばを植え、芋を植えながらの開墾を行い、想像を絶する血と汗によって遠軽は拓かれていきました。
瞰望岩の下には北海道同志教育会創立者の一人である信太寿之の碑や、開拓を支えた重要な作物であるハッカ記念碑、また郷土館など遠軽の開拓の歴史を学べるスポットが数多く並んでいます。

瞰望岩下大正12年6月開拓功労者表彰記念

地形・地質の概要

文献によると、瞰望岩の岩石は主に、溶岩が壊れてばらばらになったものが火山灰と一緒に水中に堆積して固まった火山角礫岩からできているとのことである。
この地層が堆積したのは中新世(約1,000万年前)で,当時の活発な海底火山活動によってこの地層ができたらしい。
このことを示すように、瞰望岩をつくるものは、水中に噴出した溶岩が急冷されたために、破壊され角礫の集合になった水冷破砕岩と考えられるものも多く含まれているそうだ。
岩片をよく見ると、安山岩の角礫の周囲に急冷縁と呼ばれるガラスを観察することができるとのこと。この火山角礫岩はその後、付近を流れる湧別川によって削られ、地上78mの現在の姿はその浸食をまぬがれて残った部分とのことだ。

恐ろしい噂

前述したとおり、大昔、ここはアイヌ部落間闘争が数日間に渡り、正に死闘が繰り広げられた古戦場であった。
その戦士たちの霊が現在でも、夜な夜な現れては戦い続けているというまことしやかな言い伝えがある。
岩の麓には戦士たちの霊を鎮魂するかのように碑が立っている。
そして、その岩の高さから、昔から「自殺の名所」としても有名であり、岩から飛び降りた人たちは数多くいるらしく、調査を実施するとたくさんの事例が確認された。

▶︎夫の実家が遠軽にある女性

毎年お正月とお盆の時期に帰省。遠軽駅を出て実家までかならずこの瞰望岩の横を通りますが、その見た目の雰囲気には肌が粟立つという。その女性は、結婚前に一度遊びに行った時に、当時は彼氏だった夫の親戚からこんな話を聞いた。
「瞰望岩からの飛び降り自殺が絶えないのは有名だ。今まで何人もの人があそこから飛び降りている。」「皆んな飛び降りた直後にその恐怖からか、後悔からか、まるで甲高い動物の鳴き声のような悲鳴を上げる。」
この親戚は、瞰望岩に程近いところに住んでいて、最初の時は動物の少し変わった鳴き声か何かだと、深く考えなかったが、数日後飛び降りの事件を耳にし、今までの異様な悲鳴の全てを知ったそうだ。
とはいえ観光地ということもあり、そこまでの恐怖心はなかったので、その女性は、数枚カメラに納めて帰りると、むき出しの茶色とグレーの間のような岩肌はボコボコとしていて、たくさんの細かい影を作っていた。見方によっては小学生が鉛筆で書いたような顔に見える部分もあり、お盆時期によく見かける無理矢理な心霊写真程度は何枚もあった。
しかしそんな抽象的な顔ではなく、はっきりと人の顔が写っているものが1枚だけあり震えが止まらなかった。
それは被写体の瞰望岩全体を影のように覆っていてパッと見では見過ごしてしまうようなうっすらとしたものだった。
瞰望岩は78mほどの大岩ですので、それを覆うほどの人の顔なんてありえない。なにより不気味なのは写りこんでいる女性の顔が何の表情もなく、ただこちらをジッと見つめていることだったという。写真は某お寺にてお祓い後処分したそうです。

▶︎遠軽信金のカレンダー

この岩が心霊スポットとして注目されたのは、今から20年程前にさかのぼる。
当時、撮影代行業を行っていたある企業が、地元の某信用金庫からの依頼を受けて、毎年配布するカレンダー用の写真を撮影した。当然、遠軽町のシンボルでもある瞰望岩の写真も撮影することになり、日中この岩の麓から撮影を行った。
しかし、現像された写真には、なぜか全体に赤いフィルターが掛っており、その岩の中にはまるで人の顔のようなものが幾つも映りこんでいたという。
この写真の不可解な点に気が付いた某信用金庫だったが、すでにカレンダーの配布を行っている最中だったため、慌てて配布済みのカレンダーを回収したという。
それ以来、この瞰望岩は曰く付きの場所と噂されはじめたのだが、こうした噂はカレンダーの件だけでは留まらない。

ネットに出回っている顔だらけのカレンダー

▶︎ただの観光のはずが

かつて、この岩に訪れた人々の中には、突如としてこの岩から飛び降り自殺をした人間も居るという。
噂によれば、その自殺者は何気無く崖っ淵にふざけながら立ったその瞬間、周囲の人間が、その人の足に手があるのを目撃した。そして、「死にたい」と一言口走り、そのままなんの躊躇いも無く、真っ逆さまに岩下へと身を投げたと言う。

▶︎生き残った夫

借金苦のため自殺することにした夫婦が、その死に場所として選んだがんぼう岩に登った。そして二人で同時に崖の端から飛び降りたのだが、幸か不幸か、夫の方が枝に引っかかり生きていたという。
そして、妻はどうなったのかと辺りを見回した時、隣で枝に体を貫かれた妻の姿を発見した。
目を閉じた妻の顔を眺め、悲しみにくれていると、その妻の目がいきなり開いたかと思うと、はっきりとした声で「一人で生きてるのずるいよ」と、夫の顔をみながら、平然と言ったといいます。

▶︎8つの顔

この岩はかつて顔貌岩・厳望岩とも書かれたこともあり、かねてよりその岩にあるという8つの顔を見るとその人間は死ぬという噂がある。こうした数々の噂の元となっているのが、前出のこの岩にまつわるアイヌの伝説だ。
かつて、この岩の周囲に住んでいた湧別アイヌと十勝アイヌの間で争いが起こり、湧別アイヌはこの瞰望岩を砦として十勝アイヌの大群を迎え討ち数日の死闘を繰り返した話しだ。
そのうちに、岩の下を流れる湧別川が氾濫、大洪水となって押し寄せ、岩の下に陣をひいていたいた十勝アイヌの大群が一夜にし全滅したという「インガルシの戦い」という伝説が残っている。
もう一度見てみるとカレンダーに8つの顔が…
🫨🤪🫨😇😃🤪🥸😜

調査所見

こうした古戦場としての歴史もあるため、この岩はもとより神聖な場所として知られ、崇め奉られてきたせいもあるのか、いつのまにか霊現象の起きる岩として、全国的にも有名な心霊スポットとして数えられている。
また、ネット上に噂のカレンダーの写真があるが、それはホラーゲーム「サイレン」の中に登場するオブジェクトであり、この瞰望岩のカレンダーのパロディーである。実際のカレンダーは現在も実物をその目で見たという人は現れておらず、真意の程は定かではない。
しかしながら、このカレンダーの噂は地元では知らない人間はいない程有名なため、今もなお、人知れずどこかに保管されているはずである。

奈落の底

小さな東屋の狭い敷地(畳二畳ほど)から2~3mも外れれば、そこは崖の外で約80m下に真っ逆さまである。
東屋の基礎コンクリート部分以外は、一歩出ればガタガタの岩場で、地面はでこぼこだから、うっかりつまずいたり滑ったりしてもおかしくない。そして転んだその先には手摺りや柵など一切無い。ロープや紐すら無い。そう一切無いのだ。

躓くだけで奈落へ

「柵が無いので注意して下さい」小さな注意書きがあるだけであり、転落防止の為の措置はそれだけだ。訪れた際はくれぐれもご注意を。


この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?