「共感」とは何か(読売新聞の嘘)

   自民党憲法改正草案を読む/番外382(情報の読み方)

 2020年08月30日の読売新聞(西部版14版)。1面に「総括 安倍政権」というカットつきで編集局次長・矢田俊彦がコラムを書いている。見出しは「脱デフレへ強い決意」。アベノミクスによって、株価は2倍に上がり、雇用率も改善し(失業率は2%台)、日本企業の利益は2期連続(いつかは明記していない)で過去最高を更新したと、安倍の宣伝をそのまま繰り返している。
 そのあと、「伸び悩む賃金や格差拡大もあり、景気回復の恩恵を感じないとも言われ続けた」と書き、アベノミクス批判も認識しているように装っている。
 そして、ここから「大嘘」が始まる。
 まずアダム・スミス「道徳感情論」を引用する。「自由競争の前提として、自己の利益だけでない『共感』を求めていた。人間には、他人の幸福を見ることを快いと感じさせる何かがあると」。
 さらに一橋大名誉教授の野中郁次の「共感経営」を引用する。「共感の力がドライブや推進力とッて、分析だけでは描くことのできないゴールに到達する」。
 念押しは、矢田のことば。
<blockquote>
 政策も、享受する国民と響き合ってこそ効果が発揮される。アベノミクスには「共感力」が足りなかった。
</blockquote>
 「共感」(アダム・スミス)が「共感の力」(野田郁次)をへて「共感力」と言い直されている。途中に「政策」と国民の関係を「響き合う」というあいまいなことばで表現し、論理を「叙情的」にごまかしている。そのあとで、アベノミクスには「共感力」が足りなかったと批判するのだが、いったい「共感(力)」って何? 政策における「共感(力)」って何?
 好意的に解釈すれば、国民が感じている苦しみや怒りに「共感」し、それを政策に反映させる力ということになるのだろうが、このことばのつかい方には問題がある。
 こういうときは「政権に共感力がない」ではなく、安倍には国民の苦しみ、怒りを「理解する力」がなかった、というべきなのだ。「理解力」がないのだ。「感じない」どころか、「理解できない」のだ。それはたとえば「夫の月収が50万円で、妻がパートで月25万円稼げば……」というような国会答弁に現れていた。「共感」の前に「理解する力」がなかったのだ。言い直すと、国民の現実を無視していたのだ。
 これは、こう言い直すことができる。
 政策によって実現できるものがあるとすれば、「共感」ではない。「平等」である。だれが何を感じているかではなく、具体的な「平等」である。税そのものが所得の再配分という「平等」を意識したものである。その「所得再配分」を「平等」に近づけていくためには、低所得者の税軽減、高所得者の税負担を重くする、好業績の企業に法人税をしっかり払わせる、などの方法がある。さらには、同一労働同一賃金も「平等」につながる。しかし実際はどうか。親会社と子会社の「賃金格差」、正規社員と非正規社員の「賃金格差」、日本人労働者と外国人労働者の「賃金格差」。あるいは、男女間の「賃金格差/待遇格差」など、「経済問題」だけに限って言っても、多くの「平等」が実現されていない。「格差拡大(平等の否定)」をつづけてきたのがアベノミクスなのだ。
 安倍の実現した「経済的平等」は「消費税増税」だけである。高額所得者も低額所得者も、ものを買えばものの値段にあわせて「消費税」を「平等」に負担する。
 アベノミクスは、本来の「平等」のための政策は何も実行せず、「平等」を獲得できないのは「自己責任」だと国民の間に格差を広げた。「大企業の正規社員」になれないのは、その人が「一流大学」を卒業するための努力をしなかったせいだ。努力をしてこなかった人間が「所得の再配分」を求めるのはおかしい。さらには、税金をおさめてもいない人間が平等を要求するのはおかしい、という主張を後押しした。社会には、差別が横行している。それをアベノミクスは推進した。言い直すと「共感力」を育てるのではなく、差別意識を正当化したのである。権力側が何度も何度も「自己責任」ということばを発していることが、その証拠である。

 問題なのは、「共感力」ということばのつかい方だ。
 矢田は、アベノミクスには共感力が足りなかったと、一応、安倍を批判する形でつかっているが、共感とはもともと権力(政権)と非権力者(国民)が共有するものではない。国民は政権を支持するか、支持しないかであり、それは「共感」ではない。ましてや権力が国民に「共感」するということなどあり得ない。「民意にしたがう」といいながら「民意を無視する」のが政権(権力)の姿であることは、沖縄の基地問題を見るだけでも明らかだ。
 アダム・スミスを私は読んだことがないから「誤読」かもしれないが、アダム・スミスの言っているのは自由競争をする企業の「心構え」のことである。企業は資本の利益にだけ集中してはならない、労働者、国民の利益にも配慮しないといけない。労働者も自己の利益だけではなく、社会の利益を考え、社会と「共感」するためのことをしないとけいないという意味だろう。
 「共感」とは、働くもの同士(国民同士)が共有するものなのだ。

 そして、このことは、もう一つの問題を明るみに出す。矢田が読売新聞の読者に要求しているのは、安倍への「共感」なのである。病気なのに一生懸命働いてきた。批判してはいけない。ここからさらには、国民はみんな一生懸命働いている。批判し合うのではなく、一致団結して安倍のめざしている社会のために努力しよう。そうすれば経済復興ができる、ということなのだ。言い直すと、安倍批判をしているときではない、というのが矢田の主張なのだ。政策への「共感」が国民に足りなかったとは矢田は書かないが、「共感」ということばをつかうかぎりは、そこにそういうものが動いている。
 権力への「追従」が矢田のことばを動かしている。読者を権力批判ではなく、賢慮苦にす追従するように誘導するための「大嘘」が巧みに隠されている。

 それにしても、矢田の要約しているアダム・スミスのことばはおもしろい。「人間には、他人の幸福を見ることを快いと感じさせる何かがある」の「人間」を「安倍」に「他人」を「安倍のお友達」にかえると、こういう文章になる。

安倍には、安倍のお友達の幸福を見ることを快いと感じさせる何かがあると

 安倍は自分の快感だけを求めていたのである。お友達が幸福になる。それは「快い」。なぜか、お友達が安倍を讃えてくれるからである。お友達に与えた幸福が、自分に跳ね返ってくる。
 これは「自己責任」ではなく「自己満足」である。
 安倍は、国民には「自己責任」を押しつけ、「自己満足」を追い求めただけなのだ。だから、批判されるとがまんができずに、「ぼくちゃん、もう辞めた」と責任を放り出す。だが辞職をすれば「責任」がなくなるわけではない。「責任追及」から逃れられるわけではない。
 「平等」を基本とした民主主義を破壊し、お友達優遇の様々な政策を実行し、政策を点検するための資料である文書を次々に廃棄した「責任」を安倍は負わないといけない。ジャーナリズムは安倍を追及しないといけない。その「出発点」といういうときに、「共感力」などというあいまいなことばを持ちだしてくる読売新聞の論調が、ころからどう展開するのか、見つめ続けたい。


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