クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」の酷たらしさ

クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)(Tジョイ博多、スクリーン9、2024年03月29日)

監督 クリストファー・ノーラン 出演 キリアン・マーフィ、ロバート・ダウニー・Jr、エミリー・ブラント

 私は数学者でも物理学者でもないから、私の想像が間違っているのかもしれないが、オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)の頭の中で繰り広げられる「核爆発」の映像(イメージ)がなんとも理解できない。星が爆発し(死に)、ブラックホールが誕生するという映像(イメージ)も信じがたい。あんな、アナログのイメージで物理世界を見ているのか。私は、勝手な想像だが、数学者や理論物理学者は「数学」(数字の動き)で世界をとらえていると思っていた。頭の中で、つぎつぎに数式が動いていく。その変化、そのときの美しさに夢中になっている。いまでも、そう思っている。彼らの頭のなかには、光も色もない。数式だけがある。これを象徴的にあらわしているのが、ちらりと出て来るアインシュタイン。彼は、オッペンハイマーの持ってきた「数式」を一目見ただけで、それがどんな運動(動き)をあらわしているか、意味しているかを理解する。映像なんか、見はしないのだ。だからこそ言うのだが、この映画のなかで繰り広げられる「2001年宇宙の旅」のつづきのような映像は、数学や物理のことを知らない映画監督の「空想」にしか見えない。
 で、このことと逆説的に関係するのだが。
 核爆弾投下後に苦悩するオッペンハイマーの、苦悩の根拠とでもいうべきものが、なんとも「空想的」で説得力がない。広島・長崎について語る部分だが、ここでは星の誕生、星の死の映像の裏返しのように、彼は「死者の数」を口にする。直後の死者が何人、その後の死者が何人。そこには「数字」しかない。実際の「人間」がいない。死んでいく人間の映像がない。彼は、アメリカ政府(アメリカ軍?)の主張している「死者の数」に対して抗議して、「もっと多い」と主張するのだが、この「数字だけの反論」のシーンで、私は、思わず何かを投げつけたくなった。「ばかやろう」と声を出しそうになった。
 途中に、原爆で皮膚がただれ、はがれていく映像があるが、それは原爆被害の実情を矮小化して描いていないか。映像の「うそ」が、この映画を支配している。この映画を見たアメリカ人は(あるいはほかの外国人でもいいが)、この映画で、広島・長崎の惨劇を理解できるのか。オッペンハイマーが口にした死者の数の衝撃を理解できるか。たとえば5万人と10万人の違い。これは、頭でなら理解できるが、肉体では理解しがたい。5万人と5万1人では、もっとわけがわからなくなる。しかし、死んでいくときは、いつでも1人である。それは、きっと死んでいく人、その肉親や友人にしか識別できないひとりである。そのことを多くのアメリカ人、この映画を称賛するひとたちは決して知ることはないだろう。
 この映画では、原爆を開発してしまったオッペンハイマーの苦悩を描いていることに「なっている」が、その苦悩は「理論」の苦悩にすぎない。「可能性」の苦悩にすぎない。原爆は(そして水爆)は多くの市民を殺してしまうという「理論」の苦悩にすぎない。だが、死んでいくひとは「理論」で死ぬのではない。肉体そのものが破壊されて死んでいくのである。その肉体には、オッペンハイマーはどう思っているか知らないが(どう思っているか映画では描かれていないが)、ひとりひとりに名前がある。先に書いたことの繰り返しになってしまうが、10万人というとき、そこには一人一人はいないが、その10万人のひとりひとりの名前を読み上げてみるといい。そして、その一人一人にはさらにそれにつながる多くの人がいる。死んだ人の悲しみ。親しい人を失った人の悲しみ。その悲しむ人、一人一人にも名前がある。それを、オッペンハイマーは声に出して言うことができるか。できないだろう。「現実」とは、そういう、実際に肉体でかかわろうとすると手に負えないものでいっぱいだ。
 オッペンハイマーの苦悩を描くのなら、そういうところまで掘り下げないといけない。この映画は、原爆開発計画の裏側(そのときのアメリカの野心家たちの人間関係)を描いているにすぎない。「原爆」は、その野心的な人間ドラマの「飾り物」になっている。オッペンハイマーの妻(エミリー・ブラント)の「戦わなければいけない」ということばが象徴的だが、アメリカで成功するには「人間関係で戦わなければならない」のである。その「過酷な戦い」を描いてはいるが、それはオッペンハイマーの原爆を開発してしまった苦悩そのものではない。巧妙なすり替えが、映画を支配している。
 こんな、ごまかし、空想に酔って、オッペンハイマー(原爆開発)やアメリカに「良心(反省するこころ)」があると「宣伝」するのは、とてもおそろしい。アメリカには「良心」がある、という「宣伝」は、これからもつぎつぎに繰り広げられるだろうが、強欲主義を隠すための「良心」に、私は絶対に与することはできない。

 この感想は、映画の感想ではなかったかもしれない。
 映画として、もし、見どころがあるとしたら、アメリカ強欲主義の人間関係の、なんともリアルな部分をロバート・ダウニー・Jrが熱演していたことだ。彼がいたから、この映画は強欲主義のアメリカ人の「生き方」を描いた映画だとわかる。

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