「落下の解剖学」と「悪は存在しない」

 最近評判になった二本の映画。共通点は、脚本がともに完璧であること。違いは、「落下の解剖学」には偶然というか、発見があるが、「悪は存在しない」には偶然の発見がないということ。
 具体的に言うと。
 「落下の解剖学」は、前に書いたが「音」がキーポイントになっている。起承転結の「転」の部分で、少年の弾くピアノの音が突然透明な輝きを発する。びっくりすると同時に、その瞬間、少年の「こころ」がわかるのだが、驚いているのは私(観客)だけではない。弾いている少年もびっくりしている。自分には、こういう透明な音楽を演奏することができるのだ、と驚いて、自分の弾いた音を聞いている。音楽に限らず、あらゆる芸術に触れているひとは、こういうことを体験したことがあると思う。ぜんぜん、うまくならない。しかし、ある瞬間、何かが自分のなかで起きたかのように、信じられない「作品」が生まれてしまう。その瞬間、自分の可能性を発見する。そのよろこび。
 あれは、単に、長い間練習したから(裁判の間中練習していたから)、当然うまくなったのだという「時間経過」を描いているのではない。何かが突然自分のなかにやって来て、いままで達成できなかったことができてしまったという、一種の「発見」なのである。
 そして、その「発見」がきっかけとなり、少年はそれまで見落としていたものを次々に発見していく。具体的に言うならば、父が車のなかで語ったことばである。あれは、犬のことを語っていたのではなかった。父自身のことを語っていたとわかったとき(発見したとき)、世界が違ったものになってあらわれてきた。世界が美しいものになった。わからなかった世界が、くっきりと見えた。ピアノを弾いたときも、その「音楽」の世界が少年にくっきりと美しく輝いたのだ。あの音は、それを証明している。
 その後、少年がピアノを弾くシーンがなかったことが象徴しているように、あれは「偶然」うまく弾けてしまった美しさであり(つまり、その後、同じ美しさで少年がピアノを弾けるわけではない)、だからこそ、見逃してはいけない(聞き逃してはいけない)重要なポイントなのである。そして、少年はそれを知ったからこそ、偶然気がついた「世界の美しさ」を証言するのである。
 「悪は存在しない」には、こういう「偶然」の発見がない。映画のなかで、だれかが、だれか自身であることを「超越」してしまう瞬間がない。人生にはいろいろな「偶然」があり、それは起きた後で、あれは「必然」だったとわかる。それが「落下の解剖学」にはあるが、「悪は存在しない」には、ない。
 「薪割り」のシーンを「偶然」と見るひとがいるかもしれない。やってみるとむずかしい。言われた通りの姿勢でやると、割れる。気持ちがいい。そこには発見がある、というかもしれない。しかしねえ、あれが男ではなく、女がやって「気持ちよかった」(私は生き方をかえる)というのなら「発見」かもしれないが、男がやったのでは「予定調和」である。それが、くだらない。(ここで、男と女を、こんなふうに「定義」するのは、一種の男女差別かもしれないが。)
 「人間は、こうなふうにして変われるか(こんなふうにして新しく生き始めることができるのか)」ということを、小さな発見(小さな偶然)といっしょに描かれているとき、その作品は傑作になる。そういうものがなければ、ただのウェルメイドの作品である。

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