「ことば」の持つ意味(読売新聞の「罠」)
2022年05月15日の朝刊(西部版・14版)の「コラム面」の「広角多角」というコーナーで、社会部次長・木下敦子が、「「認知症」と「キーウ」呼び名を変えた意味」という作文を書いている。
「認知症」は、それまでつかわれていた「痴呆」や「ぼけ」が侮蔑的であるという理由で「認知症」に改められた。そうした日本の現実を踏まえた上で、ウクライナ問題に関して「キエフ」が「キーフ」に改められたことに書いている。木下自身のことばではなく、在日ウクライナ人、ソフィア・カタオカ語らせている。彼女は、こう語っている。
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今回の呼称変更は、私たちにとって非常に大きな、尊厳の問題につながります。
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これは大事な問題である。「尊厳の問題」である。これを、木下は、こう言い直している。
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▽ウクライナには固有の歴史と文化があり、固有の言葉がある▽にもかかわらず、長年にわたり、ロシアによって言語を含めた『ロシア化』を強いられてきた▽ウクライナについてウクライナ語で証言することは、ウクライナという国を尊重し、その歴史や文化を応援する(=ロシアの深更を認めない)ことになる。
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この木下の「自説」(とても正しい)を補強するために、木下はさらにソフィアのことばを引用する。
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もし日本で日本語が話せなくなったらどんな気持ちがするか、考えてほしい。言葉を奪われることは国を奪われること。
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そして、論をこう展開する。
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ウクライナの人たちは武器を手に取って侵攻に立ち向かうだけでなく、言語でも戦っている。
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とても「感動的」な作文である。
だからこそ、問題がある。
この「感動」を演出するために、木下は、ある事実、ある歴史を隠している。
日本は、ロシアがやっているのと同じことをしてこなかったか。台湾や朝鮮半島で何をしてきたか。日本語を押しつけたことがなかったか。そのひとの固有の名前さえ否定し、日本人風の名前を強要しなかったか。
このことを隠し、いまのロシアの政策が間違っているとだけ指摘するのは(さらに、そのために在日ウクライナ人の声だけを引用するのは)、どう考えてもおかしい。こういうことを「歴史修正主義」というのではないのか。この木下のような「隠れた歴史修正主義」は非常に危険である。語られていることだけを取り上げれば「論理」として完結し、その論理自体には矛盾がないからである。だから、深く考えないひとには、そのまま「間違いのない論理」として広がって行ってしまう。
そして、この「ことば」の問題に関して言えば、たぶんプーチンは同じ論理で反論するだろう。実際、それに類似することを「侵攻」にあたって語っている。ウクライナ東部にはロシア語を話す市民がいる。彼らは人権的圧迫を受けている。ウクライナ人の一部がナチス的行動をしている。そういうことからロシア系の市民を守るために侵攻した。ナチス的行為をやめさせるためだ、と言っていたのではないか。
このプーチンの主張がどれだけ正しいか、私は判断するだけの知識を持っていないが、「論理的」には木下やソフィアの言っていることと同じである。
さらに、ここから「国家」における「言語の多様性」という問題を考えるとどうなるか。日本の政策を見つめなおすとどういうことが浮かび上がるか。
きょう5月15日は「沖縄復帰50年」にあたる。「編集手帖(筆者不明)」はNHKの「ちむどんどん」を引き合いに出しながら、沖縄のことばについて触れている。その沖縄で、日本はどういうことをしてきたか。標準語(?)/共通語(?)の使用を強要するために、学校で「方言」を話したものに対して、首から札をかけさせるということをしたのではないか。沖縄では特にそういう政策が厳しく取られたのではないのか。そういう差別があったことを忘れてはならない。(現在の基地対策も、きっとこの差別の延長にある。)
差別。
アイヌ語については、どうなのか。日本政府は、その言語の存在を認めようとしたのか。さらにいえばアイヌ人の存在を認めようとしたのか。アイヌ人の文化と尊厳についてどれだけ配慮をしてきたか。アイヌ人を、日本に住んでいた人たちであると認めるようになり、保護対策を進めるようになったのは最近のことである。
日本政府は、日本国外においても、日本国内においても、それぞれのひとがつかっている「ことば」に対して弾圧を加え、「日本語」を強制してきた。それなのに、そういうことがまるでなかったかのように、ロシアだけが(プーチンだけが)、ウクライナから「固有のことば」を奪っている、それは許せないという論を展開することは、あまりにも「恣意的」である。
木下が、台湾や朝鮮半島でとってきた日本の政策について知らない、沖縄の人やアイヌ人について取ってきた政策について知らないために(たぶん、私などよりも随分若いはずである)そう書いたのなら、そう書いたことに対して、誰かが(編集局内の誰かが)、日本にはこういう問題が「歴史」としてあった、ということを知らせ、何らかの形で、そういうことを書き加えさせるべきだろう。
さらに、過去の「歴史」だけではなく、いま日本で起きている問題からも同じことがいえる。日本には、正式な名称は私はよく知らないが朝鮮半島に出自の基盤を持つひとがいる。その人たちの「学校」もある。その「学校」に対して政府はどんな対策をとっているか。「祖国」について学ぶこと、その人たちの教育に口出しをしていないか。多くの学校が「教育無償化」の対象になっているのに、その対象から除外していないか。教育の自由を否定し、教育を受ける権利を侵害している。
これが日本の現実なのだ。
これは、もっと問題を広げることができる。いまはコロナ禍のために、外国人の入国が制限されているが、日本で働いている外国人は多くいる。そして、彼らには子どもがいる。その子どもの「言語教育/文化教育」はどうなっているか。彼らが自らの尊厳を守りながら共存できるように政策をとっているか。多くのひとの「文化」を剥奪し、「日本化」させようとはしていないか。
きょうの木下の「作文」は、露骨に「アメリカの世界戦略応援」という形の論ではないだけに、逆に、非常に危険である。日本が過去に何をしてきたか、日本政府がいま日本でどういうことをしているか。問題が何もないかのような印象操作である。
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