「ことば」は、どこへ行ってしまったのか。

 読売新聞2022年03月24日の朝刊(14版・西部版)1面に、国際部長・五十嵐文の「持久戦の覚悟がいる」という論文(?)が載っていロシアのウクライナ侵攻1か月、ゼレンスキーの国会演説を踏まえての文章である。
 そこに、こういう数行がある。
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 持久戦の覚悟がいる。日米欧はエネルギー調達難などの返り血を浴びても、対露圧力を維持できるか。アジアでは、台湾を武力統一する構えの中国を思いとどまらせることができるかどうかにつながる問題だ。
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 私は、こういうときだからこそ、ことばは慎重につかうべきだと思う。
 五十嵐は「返り血を浴びる」ということばをつかっている。「返り血を浴びる」には、①直接的な意味と、②比喩的な意味とがあると思う。
 ①は敵を切る。そのとき血が流れる。それが自分のからだを汚す。
 ②は、何かをすることで、それが痛みをともなう。たとえば、ロシアに日米欧が経済制裁をする。すると、ロシアが原油、天然ガスなどの供給をとめる。その結果、燃料を輸入に頼っている日本は打撃を受ける。
 今回の意味は、②である。
 問題は、実際に戦争が起きている、人の血が流れているときに、②の意味で、比喩的にことばをつかうことの「意義」である。「困難が生じる」ということの「強調」ではなく、もっとなまなましい感じがする。
 どこかで、日本(日本人)も、どこかで実際に「血を流す」必要がある、日本も「戦場」なのだ、という印象を引き起こす。たしかに「経済戦争」という側面はあるが、どうしたって、そういう「目に見えない血」ではなく、人間が実際に流す血を連想させる。
 その結果として、私は、「これではまるで戦争をあおっているようだなあ」と感じる。不必要に「血」ということば、「死」を連想させることばは、こういうときには避けないといけない。感情が先走りしてしまう。少なくとも、言論に携わる人間が、こんな煽情的なことばを安易につかってはいけない。
 で、思うのは。
 私は「安易につかってはいけない」と書いたが、五十嵐は「安易につかっている」のではないかもしれない。意図的に、戦争へ向けて、読者の感情に訴えかけようとしているのだ。
 それは、それにつづく台湾問題についての文章を読めば明らかだ。
 「台湾を武力統一する構えの中国」と書いているが、その根拠は何か。中国が「台湾を武力統一する」という方針を掲げているのか。軍備を増強している、台湾の近くで中国軍が活動している、ということなら、アメリカも日本も同じだろう。どこまでを「台湾の近く」と定義するかはむずかしいが、アメリカ海軍が太平洋の西の端までやって来ているのだから、中国海軍が東シナ海へ進出したとしても、批判されることではないだろう。何もアメリカの西海岸まで中国海軍が出かけていくわけではない。グアムやハワイ近海で活動しているわけではない。
 中国から見れば、アメリカは台湾を利用して、中国大陸に軍事的圧力をかけようとしている、と見えるかもしれない。
 「軍事的な境界線」というのは、とてもあいまいである。それまで活動していなかったところで軍備を展開すれば、それが他方にとって脅威であるというのであれば、つまり、中国海軍が東シナ海(太平洋)に進出してくることがアメリカにとって(あるいは日本にとって)脅威であるというのであれば、NATOの東方拡大はロシアにとって脅威だろう。
 ロシアが脅威だからNATOは東方拡大の必要があるというのなら、中国はアメリカ海軍が脅威だから(台湾を占領するのではないか、台湾にアメリカ軍の基地を造るではないか)、対抗措置として太平洋に進出していると言うだろう。
 五十嵐は、アメリカの政策にそのまま同調しているから、ここでも「台湾を武力統一する構えの中国を思いとどまらせることができるか」と書いているのだが、ロシア・ウクライナ問題が緊急事態なのに、いま、ここで、わざわざ台湾問題を持ち出してくるのは、ウクライナ問題を台湾問題に利用しようとしているからではないのか。
 問題は、ロシアではない。ロシアについては、もう経済制裁で追い込んだ。問題は中国なのだ、ということだろう。
 連動して、「ウクライナ支援/大統領演説にどう答えるか」という社説では、こう書いている。(筆者は明記されていない。)
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 中国は、東・南シナ海で軍事的な行動を活発化させている。日本は各国と連携し、力による一方的な現状変更は決して認めないという国際ルールを踏まえた立場を明確にしていくことが重要だ。
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 いま、いちばん考えなければならない問題は、ロシア・ウクライナ問題である。それに専念にしてことばを動かすべきなのに、ここでも中国を引っ張りだしてきている。
 だいたい「力による一方的な現状変更は決して認めないという国際ルール」と書いているが、その「現状」はどうやってつくられたものなのか。アメリカの軍事力が一方的につくりだした「現状」をそのまま固定するということではないか。
 沖縄のアメリカ軍基地、北方四島のロシアの占有。その「現状」もまたアメリカやソ連が結託してつくった「ルール(戦略図)」であるだろう。その「現状」を改善するために武力をつかってはいけないというのは、それはそれで「正論」だが、それが「正論」であるためには、「現状」が果たして「正しい」ものなのかを検討していく「場」が必要だ。「ことば」による「場」を確立することが大切だ。
 こういうときに「返り血を浴びてでも、持久戦を戦い抜く覚悟がいる」というような、「いさましいことば」で「見得を切る」のは、どうしたっておかしい。
 ロシアに冷静になれ、とほんとうに説得する気持ちがあるなら、まず、ロシアに言及することばは冷静でなければならない。五十嵐の論文は、ロシアに直接語りかけることばではないから冷静である必要はないというのかもしれないが、そういう姿勢がおかしい。読者にも、「読売新聞は冷静に思考している」とつたえないといけない。逆のことをしている。ウクライナの次は台湾だ、台湾の次は日本が戦争で支配されるとあおっている。
 いま、いちばん避けなければならないのは、こういう「戦線拡大」である。「戦線拡大」をあおることばは避けなければならない。「返り血を浴びる」には、「①は敵を切る。そのとき血が流れる。それが自分のからだを汚す。」があることを思い起こそう。五十嵐は、間接的に、台湾有事のときは、日本は中国人と戦い、返り血を浴びる(中国人を殺す)ことが重要だ、その準備をしようと言っているのだ。私の「読み方」が「誤読」なら「誤読」でかまわないが、そういう「誤読」をされないようにことばを選んで書く、ということが、いまジャーナリズムに求められている。


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