読売新聞の書き方

 読売新聞に限ったことではないが、私は「内容」よりも書き方に対して頭に来ることがある。最近話題になっている自民党の裏金づくり。「派閥」に限定して報道されているが、それは派閥の問題ではなく、自民党の問題だろう。つまり、岸田に責任があるのだ。
 それを書いているときりがないので、きょう取り上げるのは、次の文章。(2023年読売新聞12月22日朝刊、14版、西部版)「派閥幹部の立件に壁、指示・了承の証拠が焦点に…裏金疑惑任意聴取へ」という見出しで、こう書いてある。

 自民党派閥のパーティーを巡る政治資金規正法違反事件は、東京地検特捜部が「清和政策研究会」(安倍派)幹部らに対する任意の事情聴取に乗り出すことで、「派閥主導」とされる裏金疑惑の本格的な解明に移る。焦点は、直近5年間で5億円規模に上る不記載に国会議員の関与があったかどうかだが、立件のハードルは高い。(社会部 坂本早希、岡部哲也)
 「派閥を舞台にした『裏金作り』システムの詳細を見極めるには、幹部からの聴取は不可欠だ」。ある検察幹部は、近く始まる派閥中枢への聴取の意味をそう語った。
 政治資金収支報告書の作成・提出義務がある同派の会計責任者は、所属議員側へのキックバック(還流)分の不記載を認めている。今後の捜査では、同法違反(不記載、虚偽記入)容疑での立件対象が同派幹部に及ぶかどうかが最大の焦点だ。幹部の立件は会計責任者との「共謀」が成立する場合に事実上限られ、幹部による明確な指示、報告・了承のプロセスを立証する必要がある。

 国会議員の立件は難しい。「共謀」、つまり、国会議員の明確な指示、報告・了承のプロセスを立証しなければならないからだ。
 これはこれから起きることの「予測」を、「客観的」に書いているのだが、それはあくまで読売新聞が主張する「客観的」である。検察の立場でもなく、国会議員の立場でもなく、たんたんと書いている。しかし、そこには「国民の視線」がない。国民の視線がないことを「客観的」ということばでごまかしている。
 いいなおそう。
 読売新聞は今回の事件(まだ事件ではない、と読売新聞は言うだろう。立件されていないのだから)を、どうとらえているのか、この書き方ではわからない。「客観的」では、わからない。自民党に対して怒っているか、裏金づくりを受け入れているのか、それがわからない。
 もし怒っているのなら、「事件」の真相解明を検察だけに任せるのではなく、記者の手で資料をかき集め、分析し、さらに当事者に取材し問題点を暴き出す必要があるだろう。そういう「熱意」が先に引用した文章からは伝わってこない。
 逆に、こういうことが伝わってくる。
 今回の事件は立件が難しい。つまり、国会議員は逮捕されない。逮捕されたとしても、そ起訴されない。起訴されたとしても有罪にはならない。そう「予測」し、そういう情報で「国民の怒り」を鎮めようとしているのだ。逮捕されなくても、怒らないで、国民にこっそり呼びかけているのだ。これが法律というものなんですよ、社会というものなんですよ、わかってね、とアドバルーンを上げているのだ。
 もし、この記事に対して読者から批判が殺到したとしたら、そのときは少しトーンを変える。そういうことも想定しながら、読者(国民)の反応をみている。もし、ああ、そういうものなのかと読者(国民)が納得したら、国民も立件見送りを受け入れているという形で世論を誘導していくだろう。そういう誘導のための「準備」なのである。
 今回の記事は「特ダネ」でもなんでもないが、多くの政府関係の「特ダネ」はそういうものである。政府の方針を新聞で知らせる。そのあとで政府が発表する。そうすると、最初に聞いたときの衝撃(反応)は、いくぶん鈍くなる。
 二度目だからね。
 この「二度目」あるいは「三度目」という印象づくりのために、読売新聞は、わかったような記事を書いている。
 真実に迫る、という気迫がない。新聞は第三の権力と呼ばれた時代があったが、いまは政権の下請けをやっている。そういうことが、はっきりとわかる書き方である。だから、読売新聞はおもしろい。これから起きることが、ほんとうによくわかる。

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