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ぐるぐる

夫が言う、
わかりあうため、の話し合いなら、

それぞれにそれぞれの考えや生活がある、
と別者だと良くも悪くも割り切っているのがわたしで


人との出会いから親密になっていく過程で、想いを伝え合うことは当たり前のように謳われることなのに、とにかくわたしはこれが苦手だ


それは日常の何気ない出来事でもそう

ちょっと今の言い方気になるな、とか
約束の時間に遅刻してきた相手に、とか

言い返したいのに言えない、ではなく
何かを言い返す、とか、こういう風にしてほしい、とかをお願いするという選択肢が恐ろしいほどに無い

例えば一対一で誰かと話し合いをしたとき、
わかり合おう、という意識が低い
折り合いをつける、というよりは
そういう考えもあるんですね、と言う風になる

子どもの頃からどちらかといえば物分かりの良い子だった、
買い物先で買って欲しいと駄々をこねたことも無いし、反抗期なんてものもほぼ皆無だった、
そんな元々の気性に加えて、生きていく中で自分のこころが健やかでいるために見つけた策なのかも知れない

加えて、例えば意見を求められたとしてわたしは当たり障りのないことを話してしまうし、少し踏み込むならそれもヘラヘラと冗談ぽく伝えてしまう、
さあ、言葉にしなくちゃと思えば思うほど頭は真っ白になるし、いざ本音を口にしようとすると涙が溢れてしまうのだ



だから、自己処理、と言ったらいいのかな、
誰かが発した言葉に気になる、があると無意識にわたしの脳内モーターがグルグルと動く

いまは心に余裕が無いのかな、まあ私が同じ立場でも同じように態度に出ちゃうかも、とか
(自分は15分前行動10分前完了なのは置いといて)遅れちゃう日もあるよね、とか


文字に起こすと寛容な人、のようだな
それこそ綺麗事に聞こえるかもしれない、
でもこれがその場の空気を保つことと、その瞬間の自分のこころの治りどころをはかることになるのだ


そんなチクチクは過ぎてしまえば頭の片隅にも残らず毎夜夢も見ずにぐっすり眠っている


これで良い、
ぐっと飲み込むことが出来れば 
わたしはね



でも、話し合いたい人と

話すことで消耗するこころやからだを考えるなら互いの違いは違いとして受け入れていきましょうよな人と

が共存していくのって思ったより大変だ

どちらかだけが我慢すればいいのではない、
というのは承知だが
相手を尊重するためには
話し合う、ということにも協力しなくてはいけないとおもう


話せば少しでも糸口が見えるでしょう、と思う人にとってはきっと、ほんとはねが伝えられないのはなかなか生きづらいにんげんなんだろうな

頼ってね、なんでも話してね、の善意に甘えられないのは結局他人は他人の意識が先行するからなのか、
無意識のうちに処理され行動している自分のあたまとこころ

う〜む   




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