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「 父について 』

幼少期の僕には、特別変わったエピソードなどもなく

身体が弱く、おとなしく、でも足がとても早く運動神経が良かった

それくらいしか覚えていない。

なので、今回は父について書いてみる。

猪鼻宏(イノハナ ヒロシ)

昭和8年11月20日生まれ

埼玉県 川越生まれ、川越育ち

昭和61年12月5日(他界)享年 53歳

父の幼少期などはわからないので、割愛して

わかる範囲内で書きます。

戦時中はどこか東北辺り(?)の田舎に疎開させられていたらしい。

終戦後、旧制中学を卒業し

その後、陸上自衛隊に入隊。(おそらく1〜2年で退官)

そして、今度は何故か、刑務所の看守をするが

こちらも短い期間で退職。

ここからが今回の話の"肝"の部分になるが

父はなんと…

いきなり渡世入りすることとなる。

ものすごい転職(?)だ。

稲川組(後の稲川会)

山田一家(山田時造)

早川組(横浜)組員

中村宏(渡世名)となるのだ。

稲川会について、簡単に説明しよう。

日本には、三大極道と呼ばれるヤクザ組織があって

山口組、住吉会、稲川会である。

おそらく、誰もが名前くらいは聞いたことあるのではないかと思う。

稲川会は、昭和24年に熱海で稲川組として結成。

組長は、あの稲川聖城(角二)である。

そこから、またたく間に一気に勢力を拡大し

横浜、川崎、横須賀など、神奈川の重要拠点を制し

全国に名が知れるようになる。

横浜愚連隊 四天王

出口辰夫(通称モロッコの辰)
吉水金吾
井上喜人
林喜一郎(夜の横浜市長と言われる存在だった)

が、稲川聖城の漢っぷりと、カリスマ性に惹かれ

稲川聖城の若い衆になったのが、一番の要因かもしれない。

わずか20名ほどの稲川組が、数年で

3000人を越える大組織になった頃から

警察庁による、"稲川潰し"頂上作戦が始まった。

どんな微罪でもいいから、組長クラスをバンバン逮捕して

組織の弱体化を図った。

そこで、稲川組はその都度、名称を変え、政治結社としたりし

残った組員一同で、生き延びた。

1972年 稲川聖城が出所を機に

稲川会

として、総本部を港区六本木に置き、改称した。

これが、現在の稲川会に続いているのである。

父(中村宏)は、

稲川組末期から、鶴政会、錦政会、稲川一家、稲川会と

渡世の道を進み、

僕が生まれた頃に、若い衆から親分、つまり

組長になるのである。

長くなってしまったので、今回はここまで。

裏に、S.31.3.10 横浜にて、と手書きで書いてある。
父が22歳のときの写真だ。


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