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AIがどうこう、って話が盛り上がっているけど、生きる姿勢は人間からしか学べないよね


最近では将棋界でもYouTuberが話題になっていて、プロ棋士編入試験に挑戦しているアゲアゲ将棋実況こと折田翔吾さんや、プロ棋士で「二足のわらじ」的に動画配信をされる方も増えてきた。


将棋系YouTuberの多くはアマチュアで、かつ元奨励会という肩書きを持っている人なので、プロが本業をしながら、動画も作って配信する、というのは稀有のようにも思える(野球界だとダルビッシュがしていたりするが)。けれど、当然ながらプロの読みを動画を通して少しでも知ることができるのは、将棋の腕を伸ばしたい人にとってはもちろん、エンタメとして将棋を楽しんでいる人にとっても、貴重なコンテンツであるのは間違いない。


その一方、今はAIが将棋の世界にも普及してきていて、プロの公式戦の結果がYouTubeで速報のようにアップされながら、その初手から投了図(勝敗が決着した最終局面)までの流れと、その過程での「AI評価」も、全て見られるようになっている。

(※AI評価=一局の将棋の流れをAIが膨大なデータに基づいて判断し、「この手は良い」「この手は悪い」「この局面では先手がどれくらい有利(不利)」のようなデータを、数値で見ることができる仕組みのこと)


で、最近ひどいと思うのは、上で挙げたようなプロ棋士のYouTuberの対局結果が分かったときに、そのプロが負けると「この局面で投了するのは早すぎないか」とか「プロの戦いで勝てないのにYouTubeなんかしていいのか」というコメント(評価や辛辣な意見)が、対局結果の動画にものすごく多く書き込まれる、ということ。




いや、それはあまりにも、想像力や他人に対する畏敬が乏しい、不足しすぎているのではないか、と思う。



というのも、プロ棋士というのは、プロになるための限りなく狭き登竜門を抜けてきた人達なのだ。プロになれる人数は、基本的に年に4人。しかも厳しい年齢制限が設けられているので、プロを目指す人達はみな、文字通り「青春を将棋に賭けている」のだ。


もちろん、プロになるこういう制度自体が時代錯誤だ、という意見もあるとは思うが、間違いない事実として、今プロとして将棋を指している人達は、皆この、人生一度きりの不可逆的なチャンスをものにするためにしのぎを削ってきた人達であり、その壁を越えることができた人だけが、将棋でメシを食っている、ということ。



そういう厳しい世界は、もちろん自分には想像を絶するものだと思っているけれど、「この人達は自分より遙かに重い物を背負って生きてきたんだな」ということは、そういう世界を少しでも知っていればなんとなく伝わると思うし、むしろ理解できないのであれば、それは想像力の欠如であり、畏敬の念の欠如であると思う。



話を戻すと、今動画配信をしているプロ棋士だって、色んな考えがあって動画配信を始めたはずだ。


これは別の将棋実況YouTuber(プロ棋士)が言っていたが、プロ棋士の仕事は主に2つあって、

・将棋を指すこと

・将棋を普及させること

らしい。


前者は当然ながら、プロ同士の戦いに勝って、より強い人と戦って結果を残す、多くの賞金(対局料)を稼ぐ、というのが目的だ。そしてプロなら誰しも、一局でも多く将棋を指したいと思うし、勝ちたいと思うものだと思う。


その一方で、これは自分の推察に過ぎないが、前者の道から外れて、後者の「普及活動」に舵を切る人も、一定数いるんじゃないだろうか。


これは将棋に限らないと思うが、勝負の世界というのは、どうしても「他者との競争」との結果が全てである。


だから、プロとして将棋を続ける中で、もしかしたら「勝負師として自分が到達できる場所」というのは、どこかの段階である程度掴んでしまうものなのかもしれない。


将棋だと、どうしても羽生さんや藤井聡太さんがクロースアップされる。彼らは明らかに、群を抜いて強い。


ということはしかし、その裏には、(累積すると)同じ数だけ負けた人達がいる、ということだ。


もしかすると、勝負師としての自分の限界が見えたが故に、普及活動に軸足をシフトする方も、いるのかもしれない。


あるいは、将棋の解説本や詰め将棋の本を多く出版されているプロもいる(これも、普及活動の1つと言うこともできるだろう)。



恐らく、プロ棋士のYouTube配信1つとっても、その方自身、これまでのプロ生活の中で色んな経験をされて、その中で出した1つの結論が、そういう新たな取り組みなんじゃないだろうか。


そして、そういう、視聴者からすると見えない多くの部分までをひっくるめて、そのプロ棋士の人生でありプロ生活だから、僕たちは、動画などで見える表層的な部分だけを見て、相手に対して何らかの判断をすることは、やはりズレている、というよりも、浅はかなことではないか、と思う。



それは、人間同士の戦いである対局をAIで判断しながら、数字だけを見て部外者が判断しているのと、なんら変わりない。


どれだけ優勢であってもふとした瞬間にエアポケットに入ってしまうのが人間だし、心理的な微妙なアヤまで含めて、人間同士の戦いは見ていて面白いと言える。



将棋の世界には順位戦という、シビアな格付けの戦いがあるが、自分の格付けが下がる(クラスを陥落する)タイミングで、潔く(事実上の)引退をするプロだっている。



今年B級1組順位戦では、プロ史上2人目の中学生棋士である谷川浩司さんの陥落が決まってしまったが、これまで永世名人(8大タイトルの1つである名人位を、一定の期間保持した人だけに与えられる称号)となったプロのうち、1つ下のクラス(B級2組)でこれからも将棋を指し続けることを選んだのは、今回の谷川さんが初めてらしい(これまでは、陥落が決まると「フリークラス」という、格付けの戦いには参加しない世界で将棋を指し続けることを選ぶ人ばかりだった)。


この決断に対しても、外野は色々と判断をしたり、憶測を飛ばすことはできるだろう。しかし、紛れもない事実は、本人が結果を受け止めて下した決断、ということである。



もし、AI評価が盤上だけでなく、プロ棋士の人生までも行われるようになったとしたら、この「指し手」は、評価値でいうとすごく悪いことなのかもしれない(だって、これまで同様の指し手は指されてこなかったから)。


でも、本当に僕たち人間が見るべき箇所は、元々意味のない数字が紐付いてしまった、独立事象としての「指し手」ではなく、その人間が背後に持っている流れだったり、物語なんじゃなかろうか。



もし、AI評価(数値評価)というのが今後あらゆることでできてしまうのであれば、プロ棋士の選択の評価のように、「自分たちの人生の一コマ一コマでの判断評価」が、数値でできてしまうだろう。でもそんなことができてしまうと、もしかしたら「文系学部から文系院進するのは、評価値マイナス1500」なんて判断になってしまうかもしれない。



でも、そんな無機質な数字に、人間の心は動かされるのだろうか。


もちろん、膨大なデータを集めてはき出したAIから、人間が学べることも沢山あるだろうし、仕事に取り込めることもあるだろう。


けれど、人が生きる様・姿勢は、人間の生きる姿を通してしか、僕たちは学べないんじゃなかろうか。



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