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木の記憶01/五感が覚えている。

 70年近く生きていると、想い出は多様で膨大で、とりとめがない。テーマを木に絞ってみても、物心つく頃からつい昨日のことまで、大海のごとくだ。それらは、アルバムにキチンと整理されていると言うよりは、身体と心の奥深くに染み込んでいて、もはや一部になっているような気もするのである。それでも、残像を辿ってみると、60年以上前に家族で暮らした佐賀市内のお寺が想い浮かぶ。
 間借りをしていた和室二間の縁側寄りの真ん中に立つ細い柱。それに持たれてよく庭を眺めていた。開け放った夏などは、その黒光りするほど年季の入った古い柱の、肩から二の腕にかけて感じるヒンヤリとした肌触り。足下の縁側もまた長い時間踏み込まれて、裸足には心地よい感触で、部屋の奥から見ると外の光を鈍く映していた情景を思い出す。
 それから随分経ち、田舎暮らしに憧れた僕は、福岡県はずれの過疎の村に住んだことがある。当時で築80年ほどの農家には土間に竈があり、柱も梁もその煤に磨かれて、近代の家にはない陰影をたたえていた。周辺の山から切り出した杉や松を使ったというその建物は、僕の拙いセルフリノベーションも寛容に受け入れて、強い愛着の湧く空間に仕上がった。
 ふたりの息子はここで生まれ育った。過ごしたのは10年と少し。かつての僕がそうであったように、豊かな自然に囲まれた古い日本家屋で、知らず知らず五感に刻まれた大切な記憶は、一生の糧になってくれるだろう。写真は、時々2階の窓枠に座って遠くの山並みを眺めていた長男の背中。僕は息子たちに、伝えるべきものを伝えられたと信じている。
(プロデュース係/江副直樹)

天気のいい日には、阿蘇も見えた。


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