見出し画像

ひたちなか海浜鉄道に感じた魅力 〜地域と鉄道、酸いも甘いも共に〜

前回の記事で作品の趣旨についてご紹介しましたが、なぜ地域性を考慮する中で、舞台を「ひたちなか海浜鉄道」にしたのかを伝えます。そのために、まずはひたちなか海浜鉄道について、公式サイトと、5月下旬に同社の吉田社長から伺ったお話を参考に簡単にご紹介しますね。

まずこの鉄道は自治体である「ひたちなか市」と民間企業「茨城交通」による第三セクター方式の鉄道事業者です。一番最初から第三セクターだったわけではありません。

江戸時代より那珂湊は、東北からの荷揚げを行うなど関東ー東北の交流地点でした。その影響から明治に湊鉄道株式会社ができ、同社が交通・運搬を目的にスタートしました。

太平洋戦争後は茨城交通株式会社に合併されました。当時の日本は燃料不足。低燃費で輸送力のある鉄道は地域輸送を支えていました。海水浴客を中心とした旅客輸送、鮮魚などの貨物輸送による好景気の時代です。

その後、訪れた車社会によって地方における鉄道輸送は危機の時代を迎えます。駅前を中心に発展していたので、車社会になることで駅前も寂れていきました。地域と連携して街の衰退を防ぐべく、様々な努力をしましたが2008年に茨城交通株式会社だけによる運営がおわりを迎えました。

その後、ひたちなか市と茨城交通株式会社が共同出資する第3セクターとして新たなスタートを切りました。それが今のひたちなか海浜鉄道です。

これまでの楽しい時代も、苦しい時代もともに支え合ったかいひん鉄道とひたちなかの人々。地域住民は「おらが那珂湊、おらが鉄道」という思いが強く応援が強いのが特徴です。

それでいて閉鎖的ではないのは、勝田にある日立製作所の影響かなと吉田社長。なぜならあのような大きな企業があることで全国から人が集まります。そういった性質からヨソモノにも寛容なのかもしれませんね。

ここで自分の出身地・横浜のとある街のことを思いました。
私は横浜の南部にある駅、JR京浜東北線の根岸という駅が地元です。
大きな大きな精油工場のある街です。私の絵の中でも何回かそれをモチーフに煙突や精油タンクを描いています。

根岸で作られた石油は群馬、長野、山梨、栃木、東京様々な場所へ鉄道で運ばれていきます。以前の仕事では取材にいくことが多かったのですが倉賀野(群馬)で見かけたときは「あれに乗ればそのまま帰れるなあ」なんてぼんやり思ったものです。

根岸は「住む」と「働く」はありましたが、「遊ぶ」場合は、ちょっと悪い大人も小さな子供も、近くの本牧という場所に行っていました。

本牧というのは根岸から目と鼻の先です。根岸と山手の間にあるエリアで、米軍の接収地だったからちょっとハイカラな文化のある街です。外国の方が住んでいたり、私の父母が若い頃、ぶいぶい言わせながら遊んでいた場所です。

子供だった私にとって本牧は、公園までおしゃれで、歩く犬まで立派で、映画館もあって、道には大きな外車が何台も停まっていて、夏でもクリスマスのものしか売らない薄暗くてキャンドルのいい匂いのお店があったりで、とても楽しい場所でした。

でもいつからか薄々本牧の輝きが薄まっているのは気づいていました。
山手の女子校通いだったのですが、確か中学生くらいの頃には感じていました。

今、本牧で検索すると第2ワードに「ゴーストタウン」とでてしまう状態です。ハマっ子はハマ好きと言われるようにわたしも結局、横浜が好きで結婚式を本牧にある三渓園であげるくらいなんだけれど、来てくれた親戚みんなが「本牧、寂れたねえ」「つまらなくたっちゃったねえ」と口にしていました。

出産の際に、本牧にある総合病院を利用したので改めて本牧を見てみました。思い出補正を考慮しても、子供の頃のような輝きを感じることが全くできませんでした。チェーン店の支店ばかりで、ここにこなきゃという魅力は減っています。

街の盛り上げのために今まで電車(みなとみらい線)を本牧まで伸ばしては?というアイディアが何度もでたそうですが「地元愛に溢れている」「車が好きが多い」という背景も関係してか必ず反対運動が起こり、鉄道駅はできずに終わりました。

もし、鉄道が来ていたらちょっと違ったのかもしれない、電車がこないにしても魅力向上にあぐらをかいていたのかもしれないなと、元映画館・現パチンコ屋の横を歩くたびに、思います。

街と鉄道の関係性において、自分なりにそんなかんじのノスタルジーが存在しているので、那珂湊と海浜鉄道を調べるほど、「辛くても住民と鉄道が一緒になんとかしていこうと挑戦する様」は私にとって驚くほど眩しいのです。地域交通の存在と街の衰退、そして地域愛がヨソモノにも及ぶかどうかなどなど。

なので那珂湊で「空き家おくりびと」という人形に旅をさせる作品ををするなら?と考えた際に「絶対に電車。だめなら展示はいい」と自然に思えたのです。

地域の人と交流しながら制作をしたかったのでそれができず残念ですが、かいひん鉄道でいい展示できるようがんばります。よろしくおねがいします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?