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お正月映画特集2000     『御法度』『ジャンヌ・ダルク』『ファイト・クラブ』               2000.01.06     矢部明洋


  「こいつだけは何があっても応援したらなあかん」と思い定めるアーティストが、芸能好きのお方なら幾人かは心当たりがあるだろう。単純にファンになる、というのとも違う存在だ。
 私の場合、前田日明と大島渚がそうだ。ここでは当然、前田は置いておく。
 なぜ大島渚か。『日本の夜と霧』や『飼育』、『絞死刑』、『儀式』を撮った人なんだから。その独創的な作劇術は、常に人間の社会と心の闇を撃ってきた。これだけ刺激的な作品を残したんだから、もう彼が何をやろうが許したい気分になろうというものだ。
(余談ながら、私の友人に、野坂昭如の『蛍の墓』を読んで、「こんな体験をした野坂だけは何をやっても許せる」と広言している医師がいる)  我々ファンは、ここ十年ほど、かつてその才能と技量を誉めそやされてきた日本映画の巨匠たちの老醜、つまりは晩年の駄作、をイヤというほど見せられてきた。黒澤明の『夢』、今井正の『戦争と青春』、今村昌平の『カンゾー先生』、市川昆の『八つ墓村』。『御法度』もそうなのか、と心配だった。ところが、やっぱり大島渚は違った。
 男同士の濡れ場を、ピンク映画以外の一般作品で見たのはこれが初めてだ。衆道として新撰組を舞台に描かれる男色、暴力、人と人のつながりを通し、大島渚は人の心の暗黒部分に切り込んでいく。ラストのビートたけしのセリフからもそれは明らかで、今回の大島も観客に挑戦するかのようだ。往時のような生々しさは消え、理が勝ったセリフも減ったが、充分に刺激に満ちている。年を取ってもタブーに斬り込んで行く。枯れていない。
 しかし少女漫画が既にやってるテーマを、大島渚の登板を待つまでできなかった映画界というのも情けない。
 数年前、深作欣二が勲章を受けて我々ファンは少々がっかりもしたが、今『御法度』を見て、大島渚は老いても決して勲章など受けないだろう、と希望みたいなものを感じている。
 『ジャンヌ・ダルク』は見た直後に、人気漫画『ベルセルク』(中世のような舞台設定で、鎧、甲冑の戦争シーン多数)を思い出してしまった。リュック・ベッソンは、この漫画を読んでいるんじゃないかと邪推したほどだ。それほどに、日本のストーリー漫画の美点を取りいれたような演出が随所に見られる。
 例えば、ジャンヌ軍幹部のキャラクター配置やジャンヌが胸に矢を受け転落するシーンなどは、何かの漫画で読んだような既視感を覚える。これは悪口ではなく、巧いと言っている。
 しかし、である。ベッソン作品には上質のストーリー漫画に見られるの血湧き肉踊る痛快さ、センスの良さ、面白さは認められるのだが、漫画と違って映画だからこそできる作品世界の厚みが足りない。毎回、面白い(『タクシー』は別)だけに、それが歯がゆく残念だ。
 今回は後半、神をテーマにして健闘する気配もあったが、そこは私がキリスト教の知識を充分に持ち合わせておらず、成功したかどうか分からない。それでも、ダスティン・ホフマンのような役柄が登場するのも、日本漫画チックな設定に見えて仕方がない。これは私の偏見だろうか。
 上映時間は約2時間40分。時間の制約が緩くなった分、これまでの作品でベッソンが登場人物たちに施してきたセンスあふれる味付けが水臭くなったような気もする。もっと短くすれば、ベッソンの持ち味であるスピード感も生かされ、粗が隠れたのではないかと残念だ。ミラ・ジョボビッチは見栄えがするし、面白いことは面白いのだが、比較して失礼だが、同種のテーマ、作劇スタイルの『エリザベス』に長過ぎるという点で及ばない。
 『ファイト・クラブ』はカルト集団の成り立つ様を、ハリウッドの娯楽映画の枠組みで作ろうとした点が偉い。監督はじめスタッフ、キャストの問題意識は立派だ。
 カルトが主張する物質文明批判や肉体回帰を、面白く描いていて秀逸でもある。だが、ドラマの核心を成さねばならぬはずの、主人公3人の3角関係の描写に力が及ばず、観客の心をつかみ損ねた点が惜しい。
 つまり、ヒロインの造形や主筋への絡みが足りないのである。
 観客が感情移入しやすいようヒロイン像をもっと膨らませることができれば、万人受けするドラマになったろう。意欲作だけにハマル人はハマル、というレベルに留まったのが残念だ。

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