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僕は詩人じゃないから、愛してるって言わせください

秋の始まりに雨が降っていた。昼には止んで、夜には晴れる予報だ。すこしだけ悩んで、軽いビニール傘を手に取る。両肩をうっすらと濡らす秋雨は、心なしかあたたかい。

***

薄ら月浮かぶ浅い夜。私は足早に錦糸町を歩いていた。上京して三年、未だに夜の錦糸町を歩くのには抵抗がある。品定めするほど真剣でもないけれど、じっとりと通行人を見るキャッチが所狭しと立っていて、私のスーツは鎧にならない。少しでも明るい方へと急ぎながらも、視線は足元のアスファルトだけを頼りにしている。おねえさん、おねえさん。わざっとらしい舌ったらずな声が背中を押した。私は足を早めて、顎を上げる。おねえさん、待ってってば。焦る演技の声に苛立って、眉間に皺を寄せて振り返る。
「私、お酒も飲めないしお金もないですし美人でもないですから、やめてください。」
想像していたよりもずっと若くて声色と同じ表情の男の子が立っていた。彼は驚いた顔で私を見て、表情筋を緩めた。
「そーゆーんじゃなくて、ペン落としましたよ。おねえさんのだよね?」
訝しみながら彼の手元を見ると、就職祝いにと恩師から頂いた万年筆が月明かりで輝いていた。慌ててパンツのポケットを触るけれど、そこは当然のように空席だった。
「ごめんなさい、私のです。ありがとう。」
「よかったぁ。おねえさん怖い顔してるから、おれ殺されるのかとおもったよ。」
はいどーぞ、彼はCMの犬よりも人懐っこい笑顔で笑って、万年筆を差し出した。私も釣られて少しだけ笑って、万年筆を受け取る。然し、彼の手は意固地で、離れない。手首に黒いタトゥーが覗いている。
「ぼく、おねえさんに一目惚れしたから、絶対好きにさせるんで連絡先教えてください。」
反射的に、え?と声が出て、彼を見上げる。錦糸町のネオンに彼の真剣で純粋で真っ直ぐな視線が、似合わなかった。

***

改札を出ると、雨は止んでいた。軽いはずのビニール傘もすっかりお荷物だ。ふう。溜め息をついて辺りを見回す。
「あ、あゆみさーん!」
宙(そら)くんの声が視線の逆から聞こえた。宙くんの瑞々しい声と食い気味の足音に笑いを噛み殺し、私も宙くんの方を向く。
「おはよ、元気そうだね。」
「そりゃもう!あゆみさんに会えるってだけで元気ですよ!」
片えくぼがぺこりと凹んで、宙くんが笑う。行きましょう。迷いのない背中を追いかけて、私も足を進める。

結局私は、宙くんの押しに負けてLINEを交換した。宙くんは高校を中退してキャバクラのキャッチをしている19歳で、本当に私に一目惚れしたようだった。私は一目惚れされるような容姿ではないけれど、宙くんの見てきた世界の話を聞いていると「違う世界」に興味を持ってしまって恋と錯覚したのだろうな、と考察している。宙くんは私の仕事の話や趣味の話を楽しそうに聞いては、何かと私に付き合ってくれている。これが好意の利用、でないのだったらなんなのだろうか。私は今、酷く薄情な人間に成り下がっている。

「あゆみさん、混んでるんで席取っといてください。おれ、注文してきます。何がいいですか?」
「じゃあ、アイスコーヒーで」
「ちっちゃいやつでいいですか?」
「お願いします。」
平日の静かなスターバックスに似合わない溌剌とした返事をすると、宙くんはレジに並んだ。私は1番奥の席に座って、宙くんの背中をじっと見る。彼の背中には、大きな火傷の跡が残っている。その理由も、私は知っている。それなのに、普通にこういうことしちゃうんだもんな。もっと広い世界があるはずで、私に囚われなければもっと良い人と出会えて、幸せになれるはずなのに。気持ちに答えることも無く捕らえているだけの私。

「あゆみさん、そろそろどうですか?」
「え?なにが?」
氷の溶けきったアイスコーヒーを持て余し、何度か鳴った携帯に手を掛けた。仕事の連絡を返して、宙くんを盗み見る。宙くんは含羞を帯びた笑顔で、もごもごと口ごもっている。
「僕はあゆみさんのこと異性として見てるし、絶対幸せにしてやるって思ってるんですけど。」
薄いアイスコーヒーは、人工的な氷の味しかしない。飲み込んで携帯を伏せる。
「それって、どういう意味?」
何度も見た宙くんの表情が、いつにも増して寵愛したくなるような愛らしさを含んでいる。
「…今日って、月が綺麗らしくて、」
「ああ、満月だもんね。」
不意に笑ってしまう。可愛い、と口が滑りそうになって、慌てて飲み込む。口髭白黒写真の偉人が脳裏に浮かんで、彼も笑っていた。
「でも僕は詩人じゃないから、愛してるって言わせてください」
吾輩は小説家であり評論家であり俳人だが、詩人ではない。聞いたことの無い彼の笑い声が響いて、雨音はすっかり止んでいた。

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