レジに立つ僕

梨を買うことにしたから、お弁当は安い方にした。手の中のざらっとしている梨が妙に重く感じる。前に並ぶおばさんは、梨の何倍もの重さのカゴをレジ台に乗せて、大きくためいきをついた。ぴ、ぴ、ぴ。店員さんは息つく間もなく商品を手にとって、レジに通していく。あろうことか、手を止めないまま顔を上げて、にこやかにおばさんに話しかけ始めた。

「今年は、梅雨が長いですねぇ」

「ほんとうね、いつまで降るんだか」

おばさんは、大きく頷いて笑っている。店員さんも笑うと、髪と名札が揺れた。名札には菅原、と無機質な文字が書かれている。5190円です。歌うような彼女の声に押され、僕も慌てて梨と弁当を置いた。流れるような所作と、余裕のある雰囲気。まるで職人のようだ。

「ポイントカードはお持ちでしょうか?」

彼女の仕事を邪魔しないようにゆるく首を振って、前に進む。梨と弁当は、いつのまにか袋の中に詰められていた。698円です。用意していた千円札を開いて、菅原さんの表情を盗み見た。余裕と、強さと、自信と、優しさが籠もった瞳と目が合った。レジ打ちのお姉さん、かっこいい。熱を帯びた血が、僕の体を急ぎ足で流れはじめた。梨と弁当箱を提げて、サービスカウンターに足を向けた。カラフルで明るい店内にフィルターが掛かって、僅かに揺れた。サービスカウンターには若い男性店員が神妙な面持ちで立っている。気づいてもらえないかな、と前に立つけれど、彼は俯いたままだ。こんなところで躊躇っててどうするんだ、言い聞かせて、ゆっくりとくちびるを開く、

「あのう、アルバイトの募集を見て来たんですけど」

彼はすぐに顔を上げると、ああ、と優しく頷いた。ほっとして、視界の彩りがすこし戻った。

「ちょっと待ってね。黒田店長ー?」

彼が気持ち大きめの声で呼びかけると、青果フロアから40代くらいの背の高い男性がおおきな梨を片手に歩いてきた。慌てて履歴書を両手で手渡すと、店長は気の抜ける声ではーい、と受け取って、まっすぐ僕を見た。菅原さんよりも男性店員よりも体に馴染んでいるエプロン。

「どうしてウチの店で働こうと思ったの?」

「……ちょうど、通学の途中にあって、」

店長は口元だけでなるほどね、と呟いた。ぴろろん、と呑気に流れる店内放送。擦り切れて薄汚れたシャツと軽快な音楽が妙にマッチしている。履歴書を追う視線がなんだか、痛い。ちゃんと書けているだろうか、やっぱり、母さんに見てもらったほうがよかったかもしれない。ぐるぐるとせわしない思考がうるさい。耐えきれず、つま先に視線を落とす。

「オッケー、じゃあ採用で。できるだけ、続けてね。」

「ありがとうございます」

店長の穏やかな笑顔にほっとして、ちいさく会釈する。レジ袋を一瞥すると、店長は片手に持っていた梨を僕に突き出して、たのしそうに笑った。

「俺からのお祝い、早めに食べてね」

両手で梨を受け取ると、店長は駆け足で青果フロアに戻っていった。レジ袋に入っている梨が軽くて、手のひらの中の梨は、暖かかった。自動ドアから流れる風が、秋の声を運んでいる。

🍐


アルバイト初日は、秋風の涼しい午後だった。店長に渡されたルックの番号を歌のように口ずさみながら歩いたアパートからの道は、雨に濡れていた。秋雨前線が通過しています、まさに歌うように微笑むキャスター。いらっしゃいませ、呟いて、あの日の菅原さんの笑顔をなぞる。

「えっと、新人の子?」

「うえ?!あっ、はい!」

「あは、熱心でよろしい。これね、制服。更衣室そっちにあるから。」

ぱきりと固い青いシャツ。菅原さんが着ているそれとはまったくの別モノで、ため息が出そうになる。そりゃそうだけど。菅原さんは猫のように背伸びをして、脚を伸ばしていた。


「……いらっしゃいませ。ポイントカードは、」

菅原さんに言われた通りにはいはいほいほいと釣られて調理され、気がつけば僕はカウンターの向こう側に立っていた。菅原さんの心地いい声とは程遠い震え声でひとり、水溜りに浮かばせた言葉を読む。後ろに立つ菅原さんの流れを思い返しながら、バーコードをなぞってスキャンする。出だしは悪くなくて、思っているよりできるかも。でも、手元だけを見るのに必死だ。ひんやりと冷えたリンゴを手にとる。流れでスキャンしようとして、息をのむ。…何番だ。コオ、と冷房が首筋を冷やした。振り向いて、顔を見ずに聞く。

「……菅原さん、リンゴのルックって、」

「24」

「24、……小松菜は……」

「それチンゲン菜ね」

何もかもが最低限の菅原さんの声に押されて数字を打ち込む。残りの商品を通し、小計キーを押し、デジタルの数字を読み上げる。ぺらりと置かれた5千円札を取り、5000と打ち込んで精算キーを叩く。飛び出したドロワーからお釣りの硬貨を取り出す手は、震えていた。なんとか小銭を拾ってありがとうございますと投げかける。ガチガチに固まっていた力が抜けて、おおきなため息が出た。

「夏彦くん、緊張してる?」

「……この通りです」

菅原さんは余裕たっぷりでたのしそうに笑った。変わるよ、見ててね。そう言って前に立った菅原さんの背中はまっすぐで、柔らかかった。


🍎


スーパーのレジ打ちが楽だとは言わないけれど、手こずるようなことはないだろうとタカを括っていたのは事実だ。ましてや、自分がどん臭いなんて一度も思ったことがないし、そんなに苦労するとも思っていなかった。何度か出勤して、菅原さんの横に立って、思ったことがある。レジは、レジだけじゃない。接客も、商品を扱うことも、お金を扱うことも、すべてする。マルチタスクな仕事なのだ。

チルド餃子を通す、味噌を通す、重い味噌は精算済みカゴの隅に置いて餃子は立てておく、ヨーグルトを通す、味噌の上に載せる、キムチを通す――ピッという音が鳴らない。バーコードを探す、もう一度底面を掲げてスキャナーに通す。熟れたぶどうのパックを通す。ぶどうはつぶれないようにカゴの外に避難しておく。セロリに巻かれたテープのたわみを引っ張ってバーコードをかざす。5種類の野菜のルックを連続して打ち込む。小計キーを押す、金額を告げる、精算済みカゴをずずっと奥に押し出す、

ガシャッ

ぶどうの落ちた音が、ずいぶん鮮明に聞こえた。顔を上げて、すみません、と泣き声に近い声で謝る。お客さんは肩をすくめて苦笑いしている。屈んで、パックを拾う。

「業務連絡ー。青果コーナーさんー、3番レジ、巨峰の交換お願いしますー」

すっとした菅原さんの声が店内に響いて、にやにやと笑いながら店長が駆けてきた。誰に言うわけでもなくもう一度すみませんと呟いて、お金を数えた。

「それ、あげる。失敗記念だな」

店長はお客様に一礼すると、僕に笑いかけた。菅原さんも、ですね、と笑って、潰れたぶどうをタバコ棚の上に移動した。優しすぎない大人の気遣いが、むしろいたたまれなくて仕方なかった。紫色の果汁が青いシャツについて、取れなくなっていた。

一人で食べたぶどうはまだ酸味が強くて、目尻が滲んだ。

🍇



週3のシフトを2ヶ月も続けると、視野が広がった。手元だけしか見ることができなかったのが、お客様を見れるようになって、商品を見れるようになって、カゴ全体を見れるようになって。少しずつではあったけれど、成長しているのが手に取るようにわかった。

それでも。

夕方の数時間は、指先が痺れる。チェッカーチーフの貝塚さんや、ベテランパートの野原さんの列は、人がすいすい流れていく。けれど僕が立つレジはひとり、またひとりと列が伸びていく。口の中に溜まった唾液をごきゅ、と飲む。痺れた指先で肉のパックを取る。

「ナツくん、サッカー入ってくれる?」

そんな僕を見かねたように、菅原さんが横に立った。サッカーは、チェッカーと2人組で、袋詰めを専門にするポジションだ。袋詰め台が混んでくると、店員が袋に詰めるところまでを担う。菅原さんの、目にも止まらぬ手さばきに急き立てられ、袋詰めに集中する。

このくらいの人数、さくっと捌けるようにならないと。

流れるような菅原さんの手つきと、綺麗な横顔。言われてるわけでもないのに、空耳が聞こえた。夕方の数時間で一人でレジに立つまわりの店員が遠い存在に見える。きびきびと各チェッカーに配置と休憩の指示を出す、30代の貝塚チーフ。常連客といつもにこやかに話している、50代の野原さん。同じ大学で1コ上の先輩もいる。話したことのない人も何人かいて、社員かパートかバイトかなんて、見ただけじゃちっともわからない。僕もだけれど、お客さんが見たらそんなのに違いなんてないだろう。菅原さんの短く切りそろえた爪が、あたたかい蛍光灯に照らされている。

シフト終わりに事務所でレジの残金を数えていると、2リットルの紙パックを抱えた菅原さんが更衣室から出てきた。お疲れ様、お疲れ様です。浅い言葉を交わして、黙る。事務室には暖房のコー、という音だけが響いている。

「菅原さんは、どうしてチェッカーを続けてるんですか」

「そうだなあ……。お客さんと会うのが楽しいから、かな。あとはレジの仕事ってゲームみたいなトコあるでしょ。ミスをせずに、できるだけ速く。じゃない?」

菅原さんは照れくさそうに笑って、頬を掻いた。そして、だいじょうぶだよ、ナツくんなら。と続けた。根拠のないそれに頷いて、はい、と呟く。ぶどうのシミが落ちない青いシャツは、すっかりくたびれている。

🍓


2月の寒い平日。何度目かの早朝のシフト。息が白く浮かんでいる。朝礼で前に立った店長は少し掠れた声で、大きなノロシを上げた。

「今日は競合店のオリンピアが臨時休業だからね!売上倍にする勢いでがんばろう!」

突然駆り出されたのはこれか。忙しい日の「一人」に数えられていたのだと思って、安堵する。周りを見渡すけれど、貝塚チーフもパートの野原さんも、いつもと変わらないリラックスした表情だ。それでも、フロア全体がぴりりとした緊張感に包まれている。

開店時間。自動ドアが開く。大勢の客が入ってくる。彼らがフロアを回ってレジに来るまで、まだ時間がある。そう思っていたら、鮮魚コーナーの油紙を持ったおじさんが、早足で近づいてきた。

「こちら、よろしければどうぞ」

なるべく明るく、右手を挙げて呼びかける。長い一日が動き始めた。

騒がしくなってきた、と思って見れば、どのレジにも10人くらいの行列になっていた。腹をくくるように腕をまくる。機械のような速さだけを求めるのではない。食品ひとつひとつを丁寧に扱う。お客さんを見る。ことばをはっきり発声する。丁寧に進めようと思うと無意識に、あの日の菅原さんが脳裏に浮かぶ。レジ待ちの列が流れていく。店内のカラフルな彩りが冷えた陽射しで、溶けている。

夕方までめいっぱいのシフトを終えて、半泣きで事務所に戻った。事務所には貝塚さんが座っていて、大きなくちであくびを漏らしていた。体を伸ばしていた日の菅原さんが耳元で笑って、ハッとした。菅原さんに最近、会っていない。

「貝塚さん、そういえば菅原さんって最近……」

「ああ、知らなかった?菅原さんは今月から東高円寺の新店に異動したよ。あっちでチェッカーチーフ。見に行ってあげな」

「……新店」

呟いて、黙った。ここにはいない。もう、いない。さみしいわよねえ。貝塚さんの言葉にお礼を言って、帰路に逃げた。アパートから新店まで、確か歩いて20分ぐらいだ。渡すタイミングなんてないかもしれないけれど、何かお祝い持って行こうかな。そういえば店で、赤い苺が光り始めていた。

菅原さんが抜けた後も、高井戸店のチェッカー陣は精鋭揃いだった。半年、1年、1年半と過ぎて、僕もいつしか「古株」になっていた。あの冬、僕が苺を手に取ることはなかった。だけれど、今も時折、初めて目が合った菅原さんの表情を思い出す。優しく、強いチェッカーとして、今日も僕はレジに立つ。


この作品は、illy / 入谷 聡 さんの「レジに立つ青年」をReWrite・アレンジさせていただいたものです。ReWrite依頼もTwitterで募集中。

https://note.com/irritantis/n/nd7b80668b315


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