(分かろうとすることの重大さを念頭に置いた上で)分からなくていいあい

「自身の」(「誰かの」ことをさばいていたならば、それはもうその時点で、違う。終了)どうしようもなさに就いて、衝動的にでも戦略的にでも、結果的にハイカロリーな長文をしたためられる情熱のある女性性(ここでいう女性性というのは、生物学上、更にもしかしたら脳科学上、の区別としての「男/女」は全く関係のないもので、いうなれば文学的区分上の……、いや、それすらも違うかもしれない)を帯びたセンスのある人のことが、生理的に、好きだ。きっとそれは個人の性癖に近いものだと思う。

審査員長自分の総勢1名の審査員軍団にて厳正なる審査を行ったとき、そこに書き手の思慮の浅(はか)さや人生の平坦さ(苦労の美徳みたいな話ではなくて)、拙さ由来の傲りだとか、付け焼き刃の偽【ぎ】エモーショナルみたいなものを察知してしまったならば忽ち、書き手、っていうかその人のことを思いっっっっ切り、見下してしまう節がある(ちなみに自分のこういうところは、心底受け入れがたい。このマイ理論に則れば、自分のような者こそが正に「自分に見下される」人間であるのだから)。
他人の文章を読んでソッチ方面に振れたとき、得も言われぬ・勝手きわまりない嫌悪感で、頬を張りたくなる。自分と、それ書いた奴の。

「素養」のある人の文章は、どんなにクドかろうがイタかろうが、此方側に一切の不快感を与えてこない。どんな服を着て喋っていても、どんなところに・どんな文体で・どんなフォントで・どんなふうに・落っことされていても、必ずや浸透する。物凄いスピードで吸い込まれて、脳みそを潤していく。

そんな文章を書ける人は、それだけで生きている価値がある。どうか、その人たちが平気な顔してこの世を生きられる程度の自己肯定が出来るようになる日が、訪れますように。
……それが出来るようになったときには、その人はもう「書けなく」なっているかもしれないけれど、ね。

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