”寛容”に振り回される人生
人はどこまで”寛容”になれるのか。
ふと、思うことがある。
それぞれ個人の脳や心のキャパシティは決まっていて、それでいて自覚している人はどれだけいるのだろう。
あるとき、「プツリ」と切れる瞬間がある。
あるとき、何年も容姿をからかわれていた友人が。
あるとき、家に帰らず会社に籠っていた同僚が。
あるとき、温厚だった恋人が。
倒れたり、発狂したり、姿を晦ましたりする。
他人にも、本人にもわからない”限界”のお話。
だから、寛容になるって、すごく怖いことでもある。
先日、職場同士の会話の中で、
「〇〇さんは、育ってきた環境が違うから、その背景を組まなきゃならない」
といった人がいた。
その背景はどこから情報を得るの?
・話しかける
・周りの人から探る
どちらも自身の心をすり減らす。
”寛容”になるためには、一度、心をすり減らさなければならないのだ。
無自覚に寛容な人もいる。
”お人好し”が、近い言葉かもしれない。
意識しないと寛容になれない人もいる。
”自己中”はその一部の言葉かもしれない。
お互いすみ分けることもできないし、どちらも違う意味で心を日々削っている。
消えていった”心”を戻す方法を、私はまだ知らない。
一つだけ、わかること。
”寛容”がいらない人は、私の心削らない。
あなたの生活のプラスになりますように…。