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町屋良平『生きる演技』 (河出書房新社) 試論 vol.000 序説 「場」のペルソナ

 町屋良平氏が2024年3月に河出書房新社より刊行した『生きる演技』は、「小説という形式=フィクション」の構図を問い直すと同時に、現実における「フィクション」が「場」に根差すものであることを、提示している小説であると読むことができる。さらに、本論で述べる「場」は、多層的な性質を孕み、あたかも「ペルソナ」の如く小説内に登場する。
 本論では、『生きる演技』が包括する「フィクション」と「場」という言葉を切り口として、微に入り細を穿つ読み込みによって語ってゆく試みをしてみたい。

※序説と書きましたが、本論はまだ閉じられていません。今後、まだまだ書き続ける予定です。

序説  「場」のペルソナ

 『生きる演技』における歴史とは、誰かの記憶に残り続けるものとして書かれる。現実に起こった出来事は、当事者の記憶に刻みつけられるが、それはあくまで当事者固有の感覚であると我々は感じている。眼前に繰り広げられた光景にこそリアリティがあり、それが現実であると認識しているが、本作における歴史は当事者の識閾下だけではなく、当事者の物語が展開される「場」にこそ表出すると町屋氏は提示する。生崎の生家や学校の屋上、公園にも誰かの意識が存在し、登場人物と時には渾然一体となり、物語の言葉として読者の前に残されるのである。
 そして、「場」と当事者をより強固に結びつける行為こそが「演技」である。本作における「演技」は、生崎や笹岡をはじめとする登場人物が現実を乗り越える上で最もフィクショナルな態度であり、誰しもが異なった質量で持ち得るペルソナである。「演技」は、生身の人間にひとつのレイヤーを齎す。自分自身ではない誰かになりきること。自分自身とは異なる人間の様相を呈すること。そのレイヤーはペルソナ=仮面となって、登場人物になりかわる。そして、本作の大きな特徴として、町屋氏は、そのペルソナを人間にのみ付与するのではなく、登場人物たちが生きる「場」にも見い出しているのである。
 「場」のペルソナとはなにか。それは「場」が持つ本来の性質ではなく、誰かによって浮かび上がらせられた「場」の捉え方である。例えば、昭和記念公園や多摩川の河川敷、そして、笹岡が出演するYouTubeの番組や美築に撮られる生崎を見ることのできるTikTokも、「場」といえるだろう。すなわち、「場」のペルソナとは、視る者の解釈に依存し、十人十色の異なった光景を産み出すことである。この光景に私は「「場」の演技」という名称をつけたい。
 「場」と当事者をより強固に結びつける行為である演技は、作中の共通言語となり得る。生崎、笹岡の演技は、その演技を視る第三者の感情に名称を与える。共通言語となった演技は、様々な媒体に乗せられて人々へ伝播するのである。それは「「場」の演技」に根差した感情が発露することであり、この感情の連鎖が、次々に「場」のペルソナを生み出し続ける。誰かの記憶が産み出される以上、これらは続くのである。
 『生きる演技』では、「場」のペルソナが徐々に築かれ、それらに囲われゆく世界を描き出す。世界を変容させる、すなわち、「場」のペルソナ=上書きされる「記憶」という構図の元に物語は進み、より深く「場」に刻まれた記憶の最たる例としての“戦争”があり、人間に肉薄した「ペルソナ」が“暴力”として前面に表出していると考える。暴力は、当事者の性質と深く関わる。他者の肉体が、もう一方の他者の肉体にのめり込む。決して混じり合うことのない境界を限界まで肉薄させる行為が暴力であり、痛みを伴う様々な感情は当事者である他者の間ですらも共有し得ない。しかし、そこに「場」のペルソナが与えられると、より強いリアリティを伴って第三者でもある読者にまで届いてくる。例えそれが“戦争”であっても。
 物語の終盤で、生崎、笹岡のクラスが「東京立川憲兵隊事件」をモデルに文化祭で演劇を披露する。演者によって展開される演劇はもちろん、フィクションであるが、今現在に行われている現実での出来事でもある。誰が、いつ、何を演じているのか。進みゆくにつれて混濁する境界に生崎は発する言葉を失い、笹岡は現実に暴力を表出させる。我々読者には、眼前にこの場面が提示されている。テクストを読んで想像し得る場面で我々はリアリティを享受し、フィクションであると言い聞かせるように息を飲みながら、物語は結末を迎える。
 思い返せば、町屋氏は現代人が異にする個人的な意識をどのように共有し、ともに捉え直すことを主題に近年は書き続けてきた。
 『ほんのこども』の登場人物である「あべくん」は、私とあべくんの二項対立を拒み、両者の意識を綯い交ぜにする。辛うじて残る皮膚という体感のみが、私とあべくんを分かつ境界である。『恋の幽霊』では、京、青澄、土、しきの四名が同じ感情を享受しながら異なる人生を歩み、文体という観点で異なる四名の意思を渾然とさせる。
 そして本作『生きる演技』では、生崎、笹岡という異なる性質をもったふたりを、演技というフィクションの次元をつくることで、当事者における逆説的なリアリティを導くことに成功している。「「場」の演技」を発動させる行為が登場人物の身体感覚に肉薄し、より「場」のペルソナの意識を強固にする。現代人が無意識的にもつ「ペルソナ」を演技によって表出させることにより、人間の身体的な感覚=暴力に、歴史を刻み込んでいるのである。「場」のペルソナには、歴史が宿る。歴史を刻みつけること、それは過去の歴史を「振り返る」ことではなく、「捉え直す」感覚に近しいであろう。なぜなら、本作を読んで感じる痛烈な暴力は、今現在の感覚として読者に揺るぎなく迫るものであるからだ。

以上。本論は継続して考え続け、整理できたら続きをアップしようと思います。


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