アウトプットひたすら

私は何かを人や物から受け取る能力は人並みにあるつもりだけど、自分から何かを相手に手渡すことが本当に苦手だ。具体例を挙げると、人と話す時に自分が本当に伝えたい言葉が咄嗟に出てこないし、そればかりか思ってもいないようなことばかりが口をついて出てしまい、後悔する。

文章を読むのは好きだが、その割におそろしいほど創作ができない。人の話を聞いて含蓄を察したりするのは得意だけど、自分の口から出る言葉はいつも体裁こそギリギリ大人のそれではあるが、中身は支離滅裂で空虚なものだ。

常に脳の一部分が正常に作動していないような感覚がある。話したり書いたりするときはその作動していない部分を叩き起こしてかなり無理矢理に動かしている感じがする。だから、何かを一から考えなくてはいけないときは頭が致命的なダメージを受けているようで、疲労感が半端ない。

私は幼少期バリバリ場面緘黙症で、幼稚園で一言も発することが出来ない子供だったので、自分の気持ちや考えを表出させる能力を習得する大事な時期を逃してしまったのが影響しているのかもしれない。

それでも私は文章を書いたり、自分の気持ちを言葉で伝えることが好きだし、そうすることでしか生きている実感が得られないとさえ思う。自分を諦めきれない。だから本当に時々だけどここに文章を書いたり、短歌を作ったりしている。それは自己表現というより、救済のための手段だ。


最近は大喜利をよく観ている。人との雑談すらままならない自分にとってはこんなに頭の回転が速くてユーモアのある人達がいるなんて信じられないなあ、と畏怖の念を抱いてしまう。大喜利を観始めた頃は別世界で行われているものとして鑑賞していたが、最近はあまりに好き過ぎて自分でもやってみたいなという気持ちが少し湧いてきた。もちろん今は動画を観ながら答えをどれだけ考えてみてもちっとも浮かばない。でも、こんな自分でも言葉と思考の可能性を伸ばしてみたい。年内に大喜利カフェに行くことを目標にして頑張ってみようかな。


言葉によって救われたいからどんなにボロボロの言葉でもしっかり抱きしめて生きていきたいです


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