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自分の人生が手に負えない

何不自由なく暮らしているのに、自由に押し潰される感覚。
自分の人生に追いつけていないような気がしている。人生に本質なんてものはないのに。自分はどこまでも自由だから、壁がどんどん高くなっていく。

これからはどこに住もう。どんな仕事をして、どんな人と時間を共にして、どんな音楽を聴こう。そんなことを想像しても、あらゆる可能性の中から理由もなく(でもなぜか主体的に)一つを選び取ってしまう自分の姿が浮かび、不安になってしまう。

自分は何にでもなれるし、どこにでも行ける。人生は際限の無い自由だ(勿論そんなことはないので祈りのようなもの)。
でも「何でだかはさっぱり分からないけれども自分はここにこういう在り方で存在している」の連続だ。それは主体性を喪失した人間としての自分がもたらした結果という訳でもなく、全て自分の意志が引き起こしているものなのだから不思議である。

思えば私が以前行為の哲学に関心を持ったのも、「人間ってその気になれば何でも出来ちゃうけど主体的な行為者であるはずなのに自分が望んでいないはずのことばかり(無意識に?)やっている自分の実情が許せないな」みたいな感覚を定義したいという気持ちがあったからだと思う。


最近、自分は人より「自分の軸」というものが無い人間であると気がついた。それも自分が自由に苦しめられている大きな原因の一つなのだろう。

選び取れる自由は選び取るしかない不自由でもある。この人生をどうやって生きていく?



ご覧の通りに全然大丈夫じゃない人生ですが定期的にこの曲を聴いて自分を大丈夫にしてあげています。私ならきっと大丈夫。

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