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ソロモンの「夢」を解剖する

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詩編・聖書日課・特祷

2023年7月30日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約:列王記上3章5〜12節
 詩 編:119編105〜112節
 使徒書:ローマの信徒への手紙8章26〜34節
 福音書:マタイによる福音書13章31〜33節、44〜49節a
特祷
永遠にいます全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます。どうか豊かな恵みを注ぎ、わたしたちを赦して良心の恐れを除き、あえて願いえない良いものを与えてください。み子イエス・キリストのいさおととりなしによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」本日もよろしくお願いします。
 突然ですが、皆さんは昨日見た「夢」の内容を覚えておられるでしょうか? もし皆さんの中で、夢の内容を覚えていないという方がおられるならば……それは、日々のストレスを上手に解消できている証拠です。朝起きたときに、どんな夢を見たのか覚えていない方が、穏やかに眠れているということらしいんですね。
 逆に、夢の内容をよく覚えているという方がおられるとしたら、それは、眠りの質があまり良くないということだそうです。僕は結構、朝起きたときに、自分がどんな夢を見たのか覚えていることが多いんですよね。つまり、よく眠れていないということです(ちゃんと病院には通っているんですけど、なかなか良くならないですね)。厚生労働省の発表しているデータによりますと、今の時代、一般成人の30~40%が何らかの不眠症状を抱えているそうです。超ストレス社会のこの時代、「眠れない」というのは、現代人にとって一般的なことになってしまっているんですね。皆さんの中にも、睡眠の問題で悩んでいる方がおられるかもしれませんけれども、「睡眠」というのは、我々の健康にとって何よりも大切なことの一つですので、なんとか「長い睡眠」そして「良質な睡眠」がとれるよう、ご一緒に(!)頑張っていければと思っております。
 そういうわけで、本日は「睡眠」と「夢」の話から始めさせていただいているわけですけれども、今回は、旧約聖書の箇所として選ばれておりました、列王記上3章の記事をもとに、ソロモンという人物が見た「夢」のお話をさせていただこうと思います。ユダヤ人の祖先である古代イスラエル。その3代目の王となったソロモンは、今回の箇所でどのような夢を見たのか。そして、その夢から我々はどんなことを読み取ることができるのか。まぁ、あくまで、物語の中に出てくる一登場人物の見た「夢」の話ですのでね……、ほぼフィクション(創作された話)と言わざるを得ないわけですけれども、しかし今回、そのような物語の一部として描かれているこの「夢」の内容を僕なりに分析しながら読んでみましたところ、興味深いことに、その夢の主である「ソロモン」という人物の“秘められた一面”を発見することができたんですね。ですので、今日は、そのことをご紹介させていただくと共に、この「夢」に関する聖書箇所から、我々はどんなことを学ぶことができるのかということをお話してまいりたいと思います。

夢に現れた神とソロモンの悩み

 それでは早速、ソロモンの「夢」のお話が書かれている、列王記上3章のテクストを振り返ってみましょう。まずは、7節をご覧いただけますでしょうか。7節には次のようなソロモンのセリフが書かれています。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。」
 ソロモンはこの時、父ダビデの後継者として王座についたことを、夢の中で主なる神に報告しています。本日の箇所の直前(今回は省かれていますけれども4節)のところを確認してみましたところ、ソロモンは「ギブオン」という場所にやって来ています。そして、ギブオンの聖所に置かれている祭壇で、1,000頭もの家畜を(焼き尽くす献げ物として)ささげているんですね。おそらく、その犠牲の奉献は、ソロモンが王座に就いて以降、最大の祭儀だっただろうと思われます。だとすると、新しく王となったソロモン自身も、相当な心持ちで臨んだはずなんですね。冒頭でもお話しましたように、精神的な疲労があるほど、眠りの質は悪くなって、起きた時、夢を覚えていることが多くなる傾向があります。ソロモンもまた、人生最大の大規模な祭儀を行なった後、床についたわけですが、ストレスとプレッシャーによって、彼は「神と対話する」という奇妙な夢を見たのだろうと想像できるわけですね。
 さて、夢の中に出てきた神は、ソロモンにこう告げます。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」(5節)まぁ、いかにも「夢に出てくる神さま」が言いそうなセリフだなぁと思います。逆に、聖書の物語に登場する神は、意外とこういうことをおっしゃらないイメージがあるんですけれども、いかがでしょうか。
 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と、そのように神から告げられたソロモンは、自分の願いを伝えるのに先立って、まず、自分のことを神に打ち明けています。先ほど読んだ7節の続きを読んでみます。「しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」……本当に「取るに足らない若者」って、自分で「取るに足らない若者」とは言わないんじゃないかな(“おべっか”じゃない?)って、ついつい“裏の意味”を勘繰りたくなってしまうのですけれども、まぁその気持ちは抑えておいて、今回は素直に読んでみたいと思います。
 これは、新しく王に即位したばかりのソロモンが、自身の“弱さ”を神に打ち明けているセリフですね。ただ人間的に不完全だというだけでなく、指導者としてのリーダーシップが無い(自信が無い)、一国の王として相応しくないのではないか、という悩みをソロモンは抱えていた。父ダビデが偉大な王だっただけに、その後を継ぐことは相当なプレッシャーだったに違いありません。また、彼が王として任命される際には、兄のアドニヤという人物がクーデターを企てたために、結果的にソロモンは兄であるアドニヤを処刑しなければならなかったんです。そのような不安や恐怖が入り交じる胸中を、ソロモンはこの時、夢(というプライベートな時間)の中で神に対して吐露した。この「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」というセリフにはそのような背景があると言えるのではないでしょうか。
 寝ている間の人間というのは、肉体的だけでなく精神的にも“無防備”になります。起きている時に活発に働く脳の領域(特に「思考」や「判断能力」を司っているような「背外側前頭前野」という領域)が、睡眠中はその機能を低下させます。そのような脳の状態において、「レム睡眠」という眠りが浅いタイミングの時に、我々人間の脳は、普段から心の奥底に押し込めようとしている「恐怖」や「プレッシャー」、あるいは「非倫理的な欲望」といった深い思いを“解放”して、様々な記憶とともに映像化しようとします。それを、我々は「夢」として見ているそうなんですね。
 ソロモンの場合、王としても人間としても力不足だという思いを持っていながら、それを外には出さないように振る舞ってきた。しかしソロモンはこの時、「夢」という無防備な状況において、図らずも、胸の内を暴露させられたわけです。羊飼い出身で、戦いも多く経験した父ダビデとは違って、ソロモンはずっと王宮で生活してきたはずです。なので、お父さんほどの苦労をしてくることは無かっただろうと思われます。そのような彼の“弱さ”というものが、このセリフには反映されていると読むことができるわけですね。

聞き分ける心を求めたソロモン

 さて、ソロモンは神から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と告げられました。皆さんなら、どう答えるでしょうか――。ソロモンは、9節において次のような願いを神に伝えています。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」非常に謙虚な願いですね。どうせ夢の中の話なんやから、もっと人間的な欲望むき出しの願い事でもえぇやんって思ってしまうんですが、彼はそうではなく「知恵に満ちた賢明な心」(12節)というものを求めたんですね。そのような願いを申し出たことを(夢の中の)神は評価しています。そして11節。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。」自分のことではなく、正しい王としての理想的な願いを求めたことを褒めているわけですね。
 このやりとりは、我々読者に対して、「慎ましやかで思慮深い」、そういったキャラクターとしてのソロモンの姿を伝えてくれています。そして、そのやりとりの最後に、神はソロモンに対してこう告げています。「見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。」(12節)今日の箇所はこの言葉で区切られているわけですけれども、実はこの神のセリフには続きがあるんですね。13節以下を読んでみますと、次のように書かれています。「わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。[……]もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(13~14節)神は、ソロモンが誠実な願い事をしたので、(その褒美として?)彼に「富」と「栄光」、そして「長寿」をも与えようと約束したんですね。
 ソロモンは、一国の王として必要な能力である、民の訴えを「聞き分ける心」を神に求めた。すると、神は彼の素直さを褒めて、賢明な心だけでなく「富」「栄光」「長寿」といったこの世的な幸せをも与えることにした。素直な心をもって、本当に自分が必要としているものだけを求めていれば、損をしないばかりか、思わぬ形で得をすることがあるということを伝えてくれているような気がしますね。

ソロモンの願いの裏にあるもの

 このように、ソロモン王の持つ謹厳実直な性格を称えるエピソードとして、この「夢」のお話は収録されているわけですけれども……ただ、ですね。ここで皆さんに思い出していただきたいことがあります。それは、このお話は、あくまでソロモンの“夢の話”だということです。
 ソロモンの見た夢を批判的な目をもって分析してみたらどうなるか。まず、元も子もない話をしますけれども、夢に出てきてソロモンと対話している神は「本物の神」ではありません。ソロモンの脳が作り出した神です。また、夢の中で交わされた神とソロモンの会話の内容もまた、脳の働きによって彼自身のこれまでの記憶から作られたものです。ですので、この箇所に書かれている夢の内容はすべて、彼の脳が作り上げたものだと言わざるを得ません。別に聖書の話を作り話と言っているわけじゃありませんよ!そこはご注意いただきたいんですけれども、少なくとも、「夢」の話というのは、聖書の中でも現実世界でも、我々人間の脳が創作したものであると言う他ないんですよね。その前提で話を進めていきたいと思います。
 ソロモンは、夢の中で神に願い事をしました。彼はその際に「聞き分ける心」を求めたわけですけれども、これは先ほどもお話したように、彼の本心からの言葉だと思われます。しかし、そのような願いを申し出たソロモンに対して、夢の中の神は、知恵のある心だけでなく、「富」や「栄光」といったものまで与えると約束しました。これはどう理解すればよいのでしょうか。実はこれこそ、ソロモンの夢を分析する上で最も重要なポイントだと思われます。
 何度も言いますけれども、ソロモンの夢の中に現れた神は、あくまで、ソロモンの脳が作り出した神でありました。だとすれば……、ソロモンの願い事を聞いて評価したのも、富や栄光、長寿といった恵みまで与えようと約束したのも、言うなれば、ソロモンの脳が作り出した神によるもの、つまり、彼の脳の“自作自演”だったということになるのではないでしょうか。
 このことから何が分かるか。それは、ソロモン自身(意識的にか無意識的にかは分かりませんけれども)実は「富」「栄光」「長寿」など、神の恵みの象徴に対して強い憧れを抱いていたということなんでしょうね。まぁ、一国の王子として生まれたわけですから、別に不思議なことではないですけれども。そのような、この世的な願望というものが、この時、「夢」の中で溢れ出したのだと考えられるのではないでしょうか。
 この後、ソロモンの物語というのは、列王記上の11章まで描かれているわけですけれども、彼の生涯は決して、“素直”で“慎み深い”者が辿る人生とは言い難いものでした。豪華絢爛な宮殿に住み、身の回りのあらゆるものを金でこしらえ、贅沢の極みを尽くした。また、700人の王妃、300人の側室を抱え、更には偶像崇拝(異教の神への礼拝)にも手を出していました。このことは、後の時代において、「ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」(列王記上11:6)と厳しく評価されることになります。神がそれを与えたのではなく、彼が自ら、「富」や「栄光」、繁栄といったものに執着し、それを積極的に求めていったということがこのことからも分かるかと思います。
 このように、今回は列王記上に記されているソロモンの「夢」を読み解いてみたわけですけれども、その結果、イスラエルの理想的な王として聖書全体を通して描かれている「ソロモン」という人物の裏側……、すなわち、彼は、いかにもと言えるような、まさに典型的なこの世の王であり、そして、世俗的な願望にまみれた心の持ち主であった、ということを炙り出すことができたと言えるのではないでしょうか。

潜在的な願望と向き合ったイエスの父ヨセフ

 さて、最後になりますけれども、本日の聖書の箇所を通して、我々は何を学ぶことができるのか、少しお話して終わりたいと思います。
 聖書の中には他にも、特別な「夢」を見た人たちのエピソードが収録されています。代表的なのは、イエス・キリストの父となったヨセフの夢ではないでしょうか。
 聖書の記述を読む限り、ヨセフという人は柔和で真面目な人物だったようです。自分との間にできた子ではない子どもをお腹に宿しているマリアを、彼は律法に則って裁こうとはしなかった。彼女のことを愛していたからですね。ですが、それでも、彼女の言うことを易々と信じて、そのお腹の子を自分の子どもとして受け入れられるほどのお人好しというわけでもなかった。彼は葛藤します。そして、その葛藤の末に、苦渋の決断として、彼は、密かにマリアと縁を切ろうと心に決めたわけですね。そのような複雑な心境の中、ヨセフはある夜、眠りについたわけですけれども、その時、彼は「夢」を見ました。天使が現れて、マリアとそのお腹の子を受け入れるよう命じられるという「夢」ですね。そして、眠りから覚めたヨセフは、夢の中で天使に命じられたとおり、マリアと赤ちゃんイエスのことを受け入れる覚悟をしたわけです。
 このヨセフの見た夢の中にもまた、今回のソロモンと同じように、潜在的な願望というものが影響していたと考えられます。ヨセフは「正しい人」でした。つまり、倫理的・社会的に正しいかどうかを適切に判断できる人物だったと言えるわけですけれども、逆に考えれば、理性によって、常に自分の願望や欲望というものを抑えながら生きていた、そういう人物でもあったとも言えるかと思います。彼は、「夢」を通して、自分の心の根底に潜んでいる強い願望と向き合った。そして、その結果、彼は「(自分の子ではない赤ちゃんをお腹に宿している)マリアを受け入れる」という、言わば、非理性的で非常識な決断をするに至ったわけですね。しかし、そのような非理性的で非常識な決断こそ、「正しい人」ヨセフが強い意志をもって出した答えだった。ソロモンもヨセフも、心の根底にある願望に従ったわけですが、その答えは正反対だったんですね。

おわりに

 今日のお話の中では、一貫して、「夢は夢でしかない」、「夢は人間の脳が作り出したフィクション」だと切り捨ててきました。確かに、科学的に言えば、夢は人間の記憶を整理する上で生成されたヴィジョンに過ぎないかもしれません。けれども、我々人間の心には、絶えず様々な思いが湧き上がってきます。その中には、イエスの父となったヨセフのように、神を信じる者として抱く特別な思い、特別な願望というものも含まれるかと思います。それらの信仰的な思いもまた、夢の中には反映されるものかもしれないと考えるならば、我々が普段見ている「夢」も、ひょっとすると、ただの夢というわけではないのかもしれません。
 本日の使徒書の箇所であるローマの信徒への手紙において、パウロは、そのようなキリスト者として抱く“潜在的な思い”についてこのように述べていました。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8:26-27)
 言葉には言い表せないけれども、確かに心のどこかにある潜在的な思い。そんな思いに対して、本物の神は(我々の脳が作り出した架空の神ではなく実際におられる神は)、耳を傾けてくださっている。我々がそれを認識するよりも先に、神は我々の心の奥にある思いを知っていてくださっている。そして、その心の声に、いつか我々が気づき、その声に従うことを神が期待してくださっている――。そのように本日の聖書の御言葉は教えてくれているように思います。
 それでは、今朝の特祷の言葉を読んで本日のお話を終わりたいと思います。聖霊降臨後第9主日(特定12)の特祷。「永遠にいます全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます。どうか豊かな恵みを注ぎ、わたしたちを赦して良心の恐れを除き、あえて願いえない良いものを与えてください。み子イエス・キリストのいさおととりなしによってお願いいたします。アーメン」

……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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