見出し画像

アゲ↑アゲ↑ HAPPY EASTER

奨励音声データ

こちらからダウンロードしてお聴きください。

詩編・聖書日課・特祷

2023年4月16日(日)の詩編・聖書日課
 使徒言行録:2章14節a、22〜32節
 詩編:111編
 使徒書:ペトロの手紙一1章3〜9節
 福音書:ヨハネによる福音書20章19〜31節
特祷
全能の父よ、あなたはわたしたちを罪から救うため、独りのみ子を死に渡し、また義とするためによみがえらせてくださいました。どうか悪意とよこしまのパン種を除き、常にまことの信仰と清い行いをもってあなたに仕えさせてください。主イエス・キリストのいさおによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 いずれも様、ご機嫌よろしゅうござりまする。柳川真太朗 改め ヨハネ・マルコ柳川真太朗にござりまする。
 4月に入って初めの日曜日、4月2日に行われました聖餐式におきまして、西原廉太主教様に堅信式を執り行っていただき、この度、正式に聖公会の信徒とならせていただくこととなりました。
 本当でしたら、ルカ教会の皆さんには、先月や先々月、あるいはもっと早くから事前にお知らせしたかったのですけれども、日本基督教団のほうでの教師退任の手続きがどうしても3月末を待たなければ完了しなかったために、情報を公にできるのが堅信式の直前になってしまいました。それ故に、かえって混乱を招いてしまいましたことを、今日はまず何よりもお詫び申し上げたいと思います。
 もしもコレ、堅信式が「エイプリルフール」と重なっていたならば……。もっとややこしいことになっていたかもしれないなぁと思うわけですけれども、もちろん、嘘ではありません。今はもう、正真正銘、本物の日本聖公会の信徒です。マタイ教会の皆さんが目撃者です。堅信式の時に証明書をいただいたのですけれども、このとおり(ちょうど良いサイズだったので)『祈祷書』の一番後ろに貼っています。
 そういうわけですので、今後は皆さんと同じ、聖公会の信徒の一人として、このルカ教会の礼拝に出席させていただくことになりました。皆さんどうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。

祈祷書のサイズにぴったりです

信徒宣教者として

 そしてまた、これも皆さん既にお聞きのことと思いますが、誠に光栄なことに、堅信式の後、西原主教様より、この日本聖公会中部教区の「信徒宣教者(Lay Missionary)」という役職に任命していただきました。
 ご注意いただきたいのは、「信徒奉事者」ではなくて「信徒宣教者」であるということです。信徒奉事者としての働きは、まだ認められていません。
 「信徒宣教者」というのは、世界の聖公会では一応そういう事例があるそうですけれども、我々日本聖公会にはまだ規定が無い、特殊な役職なのだそうです。ですので、信徒宣教者として、今後どのような働きを任せていただくことになるのかに関しては、まだまだ未確定な部分が多くて、実は僕自身も、今後自分がどういう役目を担わせていただくことになるのか、いまいち分かっていないところがあるんですね。
 けれども、その中でもはっきりしていることが二つあります。一つは、礼拝で奨励を担当すること。そしてもう一つは、礼拝における奉仕者としての務めをしっかりと果たして、他の奉仕者の方々の模範となること。……少なくともこの二つが、今、信徒宣教者である僕には任されているということです。
 礼拝における奨励ということに関しましては、まぁ端的に言えば、これまで通りです。ルカ教会では今まで、日本基督教団の教師であるということを考慮していただいて「説教」と言っていただいておりましたけれども、今は、日本基督教団の教師でもなければ聖公会の聖職というわけでもありませんので、説教ではなく「奨励」ということになりました。ただ、やることは同じです。今後も、皆さんに聖書のことをもっともっと好きになっていただけるように、ますます精進してまいりたいと思っています。
 「奨励」に関しては、ですから特に問題はないわけですけれども、しかしながら、信徒宣教者としての二つ目の役割である「聖公会の礼拝での奉仕」というのは、これは……本当にゼロからのスタートとなります。
 以前から、聖公会の礼拝に関わらせていただいてきたわけですけれども、そこでの礼拝中の光景を「見て」何となくは知っているつもりでいました。しかし、ただ「見ている」だけでは本質というのは分からないものです。礼拝の中で起こっている一つ一つの出来事に、どんな意味があって、そしてそれらがどのような“仕組み”の中で行われているのかということにつきましては、これはもう、全くもって無知だと言わざるを得ないレベルであると改めて気付かされました。ですので、これからしっかりと気を引き締めて学びと実践を積んでいかなければならないと思っています。
 実は、早速先週から、マタイ教会の後藤香織先生のもとで“特訓”を始めていただいているんですね。まさに“特訓”という表現がぴったりだと思うんですけれども、「習うより慣れろ」という感じで、実践的な練習を通じて、聖公会の奉仕に関する知識を頭と身体に叩き込んでいただいています。いまは主に「サーバー」と「オールター」の働きに関して教えていただいている最中です。
 昨日も、マタイ教会で行われた聖餐式で(司式は土井主教補佐でした)祭壇奉仕を幾つか担当させていただきました。無事に礼拝が終わって、自分では「結構上手くできた!」と思っていたんですけれども、最後の最後で、残念ながら(後から土井先生に教えていただいたんですけれども)ロウソクの火を消すときにスカーフを付けたままだったんです。点火と消火の時は、スカーフとかストールを付けてたらダメなんですよね。点火の時は覚えてたんですけど、消火の時、ちょっと気を抜いちゃってましたね……。

霊的に“生き生き”している

 まぁそんな感じで、急いでいろんなことを覚えなきゃ!とか、早く自分も一人前の奉仕者になりたい!……というようなプレッシャーもやっぱりあるわけですけれども、どうぞ皆さん、ご安心ください。実はいま、めちゃくちゃ“霊的に幸せ”なんです!
 渇いていた魂が潤いを得て生き生きしている。そんな感覚を覚えています。霊的、宗教的な充足感ってこういうものなのかな……と、これまでの信仰生活で経験したことのないような温かさが心の中にある感じがしているんですね。
 今日の答唱詩編の中にこんな言葉が書かれていました。「主のみ業は偉大‖ み業を愛する者は皆これを楽しむ」。111編2節のところでしたけれども、まさに、この聖公会という教派のうちに働かれておられる主なる神のみ業を、僕はいま存分に「楽しませていただいている」と、そのように受け止めています。
 これはきっと、このイースターの時期に堅信式を受けられたことも影響しているのだろうなと思っているんですね。しかも、先週のイースター当日(4月9日)ではなくて、その1週間前にあたる4月2日(復活前主日)に堅信式を受けられたのがかえって良かったのだろうと思っているわけなんです。
 堅信と同時に、教会の暦において「聖週」という期間が始まりました。イエス・キリストの受難と死、そして復活に至るまでの道のりを、礼拝を通じて“追体験”する……。そのような一週間であったわけですが、その聖週の期間を、今年、僕は聖公会の一信徒として過ごすことができました。もし、まだ聖公会での堅信をしていなかったならば、たとえ聖公会の礼拝に出席していたとしても、心のどこかで“非当事者”的な感覚を持って参加することになっていただろうと思います。事実、これまで聖公会の礼拝に参与する時にはいつも、どことなく“お客さん”とか“ゲスト”という感じがしていました。けれども、今年の聖週、そしてイースターにかけては、紛れもなく一人の当事者として、礼拝の中に没入することができたんですね。
 特に、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の3日間は、「聖油聖別の聖餐式」から「洗足の礼拝」「受苦日礼拝」そして土曜の夕刻に行われた「復活のろうそくの祝福式」に至るまで、ガッツリと“楽しませて”いただきました。イエスの受難と死を記念する3日間に“楽しんだ”というのは少々不謹慎かもしれませんけれども、現に僕は、その一つ一つの礼拝が楽しくて、嬉しくて仕方がなかったんですね。そして、イースター当日。イースターの聖餐式は、後藤香織先生と一緒にヨハネ教会にお邪魔させていただいたのですけれども、礼拝でのご奉仕デビューをさせていただき、本当に恵まれた時間を過ごすことができました。
 ……唯一しんどかったことをあえて挙げるとするならば、イースターの礼拝後に行われた祝会で、もう充分満腹なのに、それでもどんどん食事が僕の前に廻ってきて食べざるを得なかったことですかね(もちろん冗談ですよ!ヨハネ教会の皆さんには感謝しかありません!)
 若い人に腹一杯食べさせる、通称「ワカハラ」……っていうのがあるのかどうかは分かりませんけれども、まぁこれに関しては、教派が変わってもどこの教会でもあるものなんだなぁと感じさせられる出来事でした。もう、そういう年齢じゃないんですけどねぇ。今月で34歳になるんですけどねぇ。

新たにされる喜び

 さて、今日は自分の話ばっかりになってしまっておりますけれども、少し話題を変えまして、本日の使徒書のテクストに関してお話ししたいと思います。ペトロの手紙一1章3節以下という箇所が選ばれていたわけですけれども、その冒頭のところには次のような言葉が書かれておりました。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」てくださいました。」(1章3節)
 いまお読みした中に「新たに生まれる」という言葉が出てきました。日本語では「新たに」「生まれる」という2単語、英語でも“new”“birth”というように2つの単語で訳されているわけなんですけれども、これ実は、ギリシア語の原文では「アナゲンナオー」という一つの単語だけが使われているわけなんですね。「産む・生まれる」という意味の「ゲンナオー」に「アナ」という接頭辞がついた形になっています。

 皆さんちょっと想像してみていただきたいのですけれども、まず「ゲンナオー」というのは、“下方向”への動きが意識されている動詞なんです。
 それはまるで、親が子どもや卵を“産み落とす”ような、あるいは、上の世代から下の世代へと様々なものが継承されていくような、そういう感じのイメージなんですけれども、この「ゲンナオー」という言葉は、そのように、“下”への働きを表している動詞であるわけなんですね。
 しかし、そんな“下方向”への動詞である「ゲンナオー」に、ここでは「アナ」という接頭辞が付いて「アナゲンナオー」という一つの動詞になっています。「アナ」というのは、英語で言えば “up”、つまり“上方向”への動きを表す言葉なんです。……おや?「生まれる」という、いわば"下方向”に向かおうとする動詞に、「アナ」という“上方向”の接頭辞が付いている。対照的ですね。そして、そのような「アナゲンナオー」という動詞を、日本語では上手いこと「新たに生まれる」というように訳しているわけなんですね。
 この「アナゲンナオー」という言葉から、今回僕は一つのことを気付かされました。それは、出産や産卵、親から子への世代継承など、更には、この地球の重力というものが表しているように、我々の世界にはどうも、“下向き”に作用していく力が自然の摂理として存在しているようだ、ということです。
 “下向き”の力に抗うのは、とても難しいことです。坂道を下るよりも坂道を登るほうが大変ですよね。「いや、歳をとったら膝が痛むから下るのも大変よ」という声も聞こえてきそうですけれども……。しかし、その「歳をとる」ということに関しても同じことが言えます。老いていく、衰えていく。そのような運命に抗いながら、少しでも“上へ上へと”若々しくあろうとするのもまた、難しいものであるわけです。
 このように、我々の生きるこの世は、どうしても抗うことの難しい力によって“下へ下へと”引っ張られていると言えるのではないかと僕は思うんですね。
 ですが、この(新たに生まれるという意味の)「アナゲンナオー」という言葉が表してくれているように、神は、そんな“下方向”に向かおうとする我々のことを「アナ」、すなわち“上へと”引き上げようとしてくださっている。イエスは神によって死から“起き上がらされた”。そして、その豊かな憐れみにより、神は我々のことをも、日々「アナゲンナオー」新たに生まれさせてくださる。“上へと”向かわせてくださっているわけです。
 喜ぶときには、下に向かってこぶしを突き出したりはしません。上に向かって高々と腕を上げて「やったー!」「嬉しいー!」「HAPPY!」と喜びを表現するものです。皆さん、せっかくですからね、一緒にやってみましょう。(まぁ無理のない範囲で)手を挙げて「HAPPY!」と叫んでみましょう。せーの……「HAPPY!」
 この“上方向”に伸び上がろうとする力。“上”に向かって引き上げようとする力。これこそ僕は「神の力」なのではないかと思うわけです。そしてそのことを、僕は今回、この「アナゲンナオー」という言葉、また、イエス・キリストの復活の物語、そして自分自身がいま体験している「復活」の出来事を通じて気付かされたんですね。

写真AC(https://www.photo-ac.com/)より

おわりに

 僕がこのように、聖公会の信徒、また信徒宣教者として立たせていただけているのは、間違いなく、これまでこのルカ教会で、いつどんな時でも励まし支えてくださった皆さんのおかげに他なりません。本当にありがとうございます。
 未熟ではござりまするが、そののちは、ひとかどの聖職になれるよう、心を込めて一所懸命に相勤めますれば、信徒宣教者ヨハネ・マルコ柳川真太朗、いずれも様におかれましては、ご愛顧のおぼしめしをもって、何卒お力添え、またご指導ご鞭撻のほど、隅から隅まで、ずいと、乞い願い上げ奉りまする。

……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?