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穂を取り残して、人を取り残さない

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詩編・聖書日課・特祷

2023年6月18日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約:出エジプト記 19章2~8節a
 詩 編:100編
 使徒書:ローマの信徒への手紙 5章6~11節
 福音書:マタイによる福音書 9章35節~10章8節
特祷
あなたを愛する者のために、人の思いに過ぎた良い賜物を備えてくださる神よ、どうかわたしたちに何ものよりもあなたを愛する心を得させ、わたしたちの望みうるすべてにまさる約束のものを与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 皆さん、おはようございます。
 僕はいつも、礼拝のお話を作る上でタイトルを必ず付けているんですけれども、今朝は「穂を取り残して、人を取り残さない」というタイトルを付けてまいりました。
 そのお話を始めるにあたって、今日ははじめに、皆さんにこちらの絵をご覧いただきたいと思います。これは、有名なミレー(1814-1875)の『落穂拾い』という作品です。

Wikipediaより

 この女性たちが腰を屈めながら拾っているのは、麦畑に落ちている麦の穂です。でも、彼女たちの手には、数えられる程度の麦の穂しか握られていません。
 一方で、この絵の奥の方をよく見てみますと、白い服を着た大勢の人たちが群がって何やらみんなで作業をしています。肩に大量の麦の穂を担いで歩いている人たちの姿も見受けられます。馬車の荷台には、たくさんの麦の穂が積まれていますし、更にその奥には、何メートルもの高さに積み上げられた麦の穂の山がいくつも見られます。この3人の女性たちのすぐ後ろには、抱えきれないほどの麦の穂をズルズルと引きずっている人もいます。でも彼女たちは、ちょっとしか持っていない。
 この奥の人たちというのはおそらく、手前の麦畑をほとんど刈り終えて、次の場所に移動して作業しているのだろうと思われます。そして、手前のこの3人の女性たちは、彼らが去った後にやって来て、その場に残された僅かな麦の穂を拾い集めているということなんですね。このように、手前と奥とで正反対の世界が描かれているのが、この『落穂拾い』という作品の特徴であるわけです。

彼女たちが落穂拾いをしている理由

 ところで、この作品のことを知らない人が初めてこの絵を見たとしたら、どんな感想を持つでしょうか。「どうしてこの3人の女性は、他の人たちと一緒に作業をしていないのだろう」と不思議に思うはずです。あるいは、勘の良い人であれば「奥の人たちと手前の3人の女性たちは違うグループなんだ」と考えるかもしれません。
 そうですね。手前の3人の女性たちには、奥の大勢の人たちと一緒に収穫の作業をできない理由があったわけです。すなわち、彼女たちは、奥の人たちのグループには所属していなかったということです。
 作品の右のほうを見てみますと、一人、作業をせずに、ただ馬に乗っているだけの人が描かれていますよね。この人は多分、現場監督か見張り役だと思われます。「まだこっちのほうが刈れてないぞ」とか「おい、そこ!サボるんじゃない!」とか、そういう指示を出す役割の人なんでしょうね。そして、その目線の先に描かれているのは、この麦畑の所有者である地主に雇われている人たち。彼らは、自分が刈った分だけ麦の穂を持って帰れるわけじゃない。それぞれ、日給か月給かは分かりませんけれども、一定の賃金をもらって仕事をしているんですね。
 じゃあ、手前の3人の女性たちは、どうして雇ってもらわないの?一緒に雇ってもらえばいいじゃん!……「雇ってもらわない」んじゃない。「雇ってもらえない」んです。できることならば、彼女たちもきっと、奥の大勢の人たちと同じように働きたいと思っていたことでしょう。
 でも、それが叶わない。身体に障がいがあるとか、病気を患っているとか、何か理由があったのだろうと思われます。もしかすると、奥の人たちよりも社会的な身分が低い人たちなのかもしれない。外国人、異民族、難民、異教徒。そういう人たちなのかもしれません。
 いずれにせよ、彼女たちは、奥の人たちみたいに、安定した生活を保証されている人たちではなかった。でも、どうにかして生きていかなければならない。だから彼女たちは、言わば、“人様の畑”にお邪魔して、その辺に落ちている麦の穂を拾って持って帰ろうとしているというわけなんですね。それが、この畑の所有者の許可を得てやっていることなのか、それとも無許可でこっそりと行なっていることなのかは、この作品を見ただけでは分かりません。でも、この作品を製作したミレーという人は、写実主義の画家として、実際にそのような光景を目撃した。そして、現実にそういう女性たちがいたということで、この絵を描いたということなんですね。

「落ち穂は残しておきなさい」

 さて、ここで、聖書の御言葉に目を向けてみたいと思うんですが、本日の朗読箇所を振り返る前に、まずは別の箇所、旧約聖書のレビ記の言葉を読んでみたいと思います。レビ記23章22節です。

 「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」

 穀物の収穫に関する規定ですね。麦などの穀物の収穫をする際に、穂を全部刈り尽くしたり、落ち穂もすべて回収したりするのではなくて、多少は、貧しい人、寄留者など社会的に身分の低い者たちのために残しておかねばならないということが、ユダヤ教の律法の中では定められているわけです。
 このミレーの『落穂拾い』の中でも、いまご紹介した律法の規定がテーマの一つとして扱われているのではないかという見方があります。
 彼女たちは、人様の畑で落ち穂を拾うことが許されている。黙認されている。現場監督あるいは見張りの人から追い出されるような事態にはなっていない。このことは、彼女たち社会的弱者の権利が、たとえそれが暗黙の了解であったとしても、ある程度は、聖書や神の名のもとに“保証されている”という事実を映し出しているのではないかと、そのように考えることができるわけですね。 

収穫、感謝

 さて、そのような穀物に関する規定が律法の中に定められていることを念頭に置いた上で、本日の聖書日課のお話をしていきたいと思います。
 今回の聖書日課においては、3つの注目すべきキーワードが見られます。それはすなわち、第一に「収穫」、第二に「(収穫に対する)感謝」、そして第三に、イエスの語った「働き手」という言葉(マタ9:37)……この3つです。これらのキーワードをもとに、今日の聖書のテクストは読み解かれるべきだと僕は思うんですね。
 旧約の箇所として選ばれている出エジプト記19章2節以下。ここには、エジプトを出発したイスラエルの民が「シナイ」の荒れ野に辿り着いたということが記されています。今回の箇所では省略されているんですけれども、この直前の19章1節には、彼らがシナイの荒れ野に到着したのは、エジプト出発から「およそ7週間」であったということが報告されているんですね。そしてこの後、続く20章以下では遂に、あの十戒を含む「律法」が預言者モーセを通じてイスラエルの民に授けられることになります。
 このような聖書の記述をもとにして、ユダヤ教では古くから「エジプト出発から7週間を経た時に神から律法を授かった」ということを記念する祭りが祝われてきました。「シャブオット(Shavuot)」というお祭りです。

 エジプト出発を記念するお祭りは「ペサハ/Pesach(過越祭)」といいますけれども、過越祭から7週間(あるいは50日)が経過したあとに祝われるお祭りを「シャブオット」というんですね。日本語では「七週祭」とも呼ばれています(申命記16:9参照)。
 シャブオットというお祭りは、いまお話ししたように、第一には、神の律法がイスラエルの民に与えられた出来事をお祝いするという目的があるのですが、実はこのお祭りにはもう一つの側面があるんですね。それは「収穫祭」です。先ほど、『落穂拾い』の話のときにレビ記の言葉を読みましたが、その箇所と同じところに、収穫祭としてのシャブオットの規定が記されています。
 「あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。 七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。」(23:15-16)
 新穀というのは、ここでは小麦のことを指します。エジプト出発を記念する「過越祭」の時期には大麦が収穫され、シャブオットの時期には小麦が収穫される。小麦は大麦よりも2ヶ月ほど遅く収穫されますからね。7週間とか50日っていう期間は、そういう大麦と小麦の収穫時期の違いに由来しているということが分かります。そして、そのような収穫を喜び、神への感謝を表すために、人々はそれらの最初の実りを神に献げるということを行なっていたわけなんですね。

穂を乗り残して、人を取り残さない

 この穀物の収穫に関する規定は「献げ物をささげなさい」という命令で終わっているわけではありません。何度も言うように、この後には非常に大切な言葉が続いているんですよね。

 「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」(22節)

 麦畑すべてを刈り取るのではなく、また、落ちている穂まで拾うのではなく、ある程度、貧しい人や寄留者たちのために残しておく。彼ら彼女らが後でそこにやって来て、自由に刈り取ったり、落ち穂を拾ったりできるようにしておく。そこまでが、この穀物に関する規定を含む「神の律法」というものを与えられたイスラエルの民の義務だったわけです。
 「律法」というと、我々キリスト教の立場からは、どうしても「堅苦しいもの」とか「束縛の象徴」「排他主義的」などのような、そういうマイナスな印象を持ってしまいがちですけれども、それは、イエスやその弟子たちが対峙することになった一部のユダヤ教指導者たちがそうだったわけであって、律法自体はこのように、実は慈愛に満ちた、とても包括的な掟や法が含まれているんですね。
 ややもすれば無秩序で雑然とした社会になってしまいがちな人間のこの世での営みを、どうやって整えていくか、いかにして様々な人々が生活しやすい環境を作っていくか。ユダヤ教の律法というのは、そのようなことを考えた古代の賢者たちの知恵の集大成であったわけです。
 ……穂を取り残して、人を取り残さない。昨今、国際社会においてSDGsという世界平和のための目標が掲げられ、各国で様々な取り組みが為されていますけれども、そのSDGsの核となっている目標は『誰一人取り残さない』世界を作ることです。SDGsが取り決められたのが、今から8年前、2015年です。しかし、イスラエルの歴史においては、その遥か昔から、紀元前何百年という時代において、既に「穂を取り残して、人を取り残さない」という規定を含めた律法が定められていた。これは凄いことだと思いますし、同時に「我々人類はそれ以降の2000何百年もの間、一体何をしていたのだろう」と悲しくもなってしまいます。

収穫は多いが、働き手が少ない

 律法の成立から数百年後、ガリラヤにイエスが登場したわけですけれども、彼は、今日の福音書テクストの冒頭にも書かれているように、「イエスは町や村を“残らず”回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)……つまり『誰一人取り残さない』という究極的な目標を身をもって体現しようとしていたんですね。
 一部、今日の箇所で気になるところがあります。それは、10章5節のところ。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」というイエスのセリフです。これは、他の福音書には書いていないことです。マタイ福音書だけに書かれている言葉なんですね。マタイさんは、ゴリゴリのユダヤ主義的キリスト者だったので、救いの予告は、誰よりもまずユダヤ人に対して為されるべきだと考えていたようです。だから、マタイさんは、このようなことをイエスの口を通して語らせたんでしょうね。まぁ事実、福音宣教はユダヤ人から異邦人へと広がっていったので、歴史的な経緯としては間違ってはいないわけですけれども、これをイエスの真正の言葉として受け取るのはよろしくないだろうと僕は思うんですね。
 イエスは、一人のナザレ出身のユダヤ教徒として、律法の精神に則った「誰一人取り残さない」ための生き方を貫こうとした。けれども、そのためには“マンパワー”が足りなかった。そりゃそうです。世界を変えようと思っても、一人では太刀打ちできません。だから、イエスはここで「収穫は多いが、働き手が少ない」と漏らしているわけです。
 この箇所から我々が受け取るべきメッセージ……それは、イエスがやろうとしたことを多くの人が引き継げば、必ず世界は変わっていくという希望のメッセージです。
 イエスのように直接、誰か困っている人のことを助けるというのは、ハードルが高いかもしれない。それでも、さりげない気遣い、小さな配慮、この絵画のように「落ち穂を残しておく」というようなことくらいなら、僕らにもできるかもしれません。そのような僅かな愛が積み重なることで、きっと誰一人取り残さない神の国がこの世に実現するのだと僕は期待をしています。

おわりに

 雨が空から降ってきて、地を潤し、作物が育つように、神の恵みを受けた者たちが、様々な事情でその恩恵に与れないでいる者たちと手を取り合うことで、この世に愛の実りが広がっていく。そのことを信じて、これからもイエスに従う一人ひとりとして、その使命を担ってまいりたいと願います。

……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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