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毒麦は麦になれない


詩編・聖書日課・特祷

2023年7月23日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約:知恵の書12章13節、16〜19節
 詩 編:15編
 使徒書:ローマの信徒への手紙8章18〜25節
 福音書:マタイによる福音書13章24〜30節、36〜43節
特祷
恵みと憐れみを賜るとき、殊に全能を現される神よ、豊かな慈しみをわたしたちに与え、あなたが約束されたものを目指して走り、ついに天の宝にあずかる者としてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」名古屋からまいりました、中部教区信徒宣教者の柳川真太朗と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、早速ですが、皆さんは「どうしてこの世から悪が無くならないのだろう?」と思ったことはないでしょうか。あるいは、「全知全能の神がこの世界を造ったのであれば、どうして悪が存在するんだ。」そのように、神を非難したことがあるという方もおられるかもしれません。
 そのように考えることは、当然のことだと思います。何故なら、「悪」が無かったら、みんな平和に過ごせるはずだからですね。悪が存在しない世界を、僕らは夢見ている。けれども、いくら願っても、この世から悪は無くならない。そして、悪によって今も多くの人たちが苦しんでいる。だから、僕らは「どうしてこの世から悪が無くならないのだろう?神様は一体、何をしておられるのだろう?」という疑念を抱くわけです。
 本日の聖書日課はいずれも、「悪」の存在理由について扱っている箇所であると言えます。もっと言えば、今回の聖書日課は、先ほど提示した「どうしてこの世から悪が無くならないのか」という問題に正面から向き合っている、そういう日課だったのではないかと思います。今回は、これらの箇所の中から、主に、「知恵の書」と「マタイによる福音書」。この2つの箇所にフォーカスして、「『悪』の問題」についてそれらの箇所はどう考えているか、探ってまいりたいと思います。

「毒麦」が残される理由

 今日の聖書日課のうち、悪の問題について最も分かりやすく書かれているのは、マタイ福音書の箇所ではないかと思うんですね(13:24-30,36-43)。今日の箇所には、いわゆる「『毒麦』のたとえ」と呼ばれるイエスのたとえ話、そして、その解説が記されておりました。
 福音書に収められているイエスのたとえ話というのは、ある特徴があります。それは、「言いっぱなし・語りっぱなし」。そして、特段、詳しい解説がなされないということです。たとえるならば、お笑い芸人のひとが、ボケたあとに、そのボケの説明をしないのと同じ……と言うと少々箔が落ちてしまうかもしれませんけれども、イエスもまた、たとえ話を語ったあとは、丁寧に説明はしない(あとは全部聴衆に委ねる)というスタイルをとっています。つまり、分かる人にはすぐ分かる(分からなかった人は、あとで誰か分かった人に教えてもらえば良い)ということですね。
 ところが、今回の箇所は違うんです。実は、先週の「『種を蒔く人』のたとえ」(13:1-9,18-23)もそうだったんですけれども、今回の「『毒麦』のたとえ」もまた、異例の“解説付き”たとえ話として書かれているんですね。どうしてこのマタイ13章だけ、たとえ話の解説が書かれているんだろう?と、どうも腑に落ちないところはあるわけですけれども、まずは、書かれているものを素直に読んでみることにしたいと思います。
 この「『毒麦』のたとえ話」とその解説の内容によりますと、「毒麦」つまり「悪いもの」がこの世に入り込んできたのは、神の敵である「悪魔」のせいだと言います(38節)。悪魔が、神様の畑であるこの世界に、悪いものを忍び込ませたのだというんですね。
 ここで勘の良い人なら、きっとこう思うのではないでしょうか、「悪いものが入り込んできたのならばすぐ取り除けば良いんじゃないか」……と。そうなんですよね。なので、たとえ話の中に登場する主人の僕たちも同じようなことを言っています。「では、行って抜き集めておきましょうか。」(28節)。
 ところが、そんな彼らに対して、主人はこう告げるんですね。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」(29〜30節)そして、刈り入れの時、すなわち(解説の言葉を借りるならば)「世の終わり」の時が来てから、「麦」と「毒麦」を選り分けよう、と主人は言っているんです。毒麦である「悪いもの」を取り除こうと思ったらすぐにできるんだけれども、その際に、「良いもの」も一緒に取ってしまうかもしれない、つまり犠牲を払うことになるかもしれない。だから、時が来るまで「そのままにする」という判断を神は下したのだというんですね。だから、「この世に悪が存在し続けている」(悪が無くならない)のだと、ここでは説明されているわけです。これが、マタイ13章の説明する「この世に悪が存在し続けている理由」。重要なのは、神は、ただ悪を放置しておられるのではなくて、明確な目的があって、あえてそのままにしておられるのだということですね。

悪からの回心

 このように、「実は、神は悪を取り除こうと思えばすぐにおできになる」と仄めかしているのが、このたとえ話の興味深い点なのではないかと僕は思います。このような考えは、今回の旧約聖書の箇所である「知恵の書」(12:13,16-19)の内容にも見られます。知恵の書の12章18節をご覧いただけますでしょうか。そこにはこのように書かれています。「力を用いるのはいつでもお望みのまま。」万物を支配しておられる神は、悪を滅するためならいつでも実力行使をすることがおできになる。力によって解決するのはいとも容易いことなのだけれども、「寛容」と「大いなる慈悲」によって、あえてそれをしないでいることが、“神の正しさ”なのだと、そのように知恵の書の著者も考えているんですね。我々の感覚からすれば、「悪い芽は早めに摘んでおくに越したことはない」、それが人間的な正しさだ、と思ってしまいますけれども、マタイ福音書においては、もしそんなことをすれば「良いもの」まで犠牲になってしまう可能性がある……、知恵の書の著者にとっては、すぐに実力行使をしようとするのは愚かなことで、忍耐しながら見守り続けることが大切なのだ……というように、それぞれの主張を展開しているわけなんですね。
 二つの主張に共通していることは、「神は“意図的に”悪を滅ぼさないでいる」というところだと思います。悪を放置しているのではなく、あえてそのままにしている、というのがこの二つの箇所の共通項であると言えます。ところが……なんですね。この「知恵の書」と「マタイ福音書」の間には一つ、重要な相違点が見られるのです。それは、知恵の書にあって、マタイ福音書の方には無いこと。すなわち、「罪からの回心」です。12章の19節をご覧ください。このように書かれています。「こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。」神が、悪を滅するために実力行使をなさらないのは、人間が“回心”をし、自分たち自身で罪を取り除くのを待っておられるからだ、と言うんですね。
 このことは、「知恵の書」という書物のメインテーマである「知恵」というもの大きく関係しています。「知恵の書」の著者曰く、この世界は「(神の)知恵」によって創造されているため、人間はその知恵を知ることで、思慮分別のある生き方ができるようになる。したがって、人間が「知恵」によって学び、そして「善悪」を見極められるようになるのを、神は忍耐強く待ってくださっているのだ、というのがこの箇所における、知恵の書の著者の主張なんですね。
 しかしながら、今回のマタイ福音書の箇所は、そのような知恵の書の考えとは真っ向から対立しています。今回のたとえ話の中に出てくる「毒麦」という植物。これは、「麦」が病気などに罹って悪くなったもの、というわけではなくて、そもそも「麦」とは、本質的に異なる植物なんです。「麦」(σῖτος)というのは、主に「小麦」のことを指す言葉なんですけれども、一方で、「毒麦」と日本語で訳されている「ズィザニオン(ζιζάνιον)」というのは、おそらく、芝生とか牧草のような植物だろうと考えられています。ですから、そもそもが違う植物なんですね。だとすると、いくら「毒麦」(牧草)を大事に大事に育てたとしても、それが「麦」に変わるということはありえない。そして、それを踏まえた上で、あらためて38節以下の解説の部分を読んでみるならば、悪魔によってこの世界に蒔かれた「悪い者の子ら」と呼ばれる者たちが、「御国の子ら」に“突然変異”することもありえない、ということになります。「悪い者の子ら」と「御国の子ら」は本質的に違うのだから、「悪い者の子ら」は「悪い者の子ら」であり続けるわけです。彼らはそもそも「回心」する余地や可能性すら想定されていない「根っからの悪」。そのように、この箇所には記されてわけですから、(何度も言うように)毒麦が小麦に変わることがないように、毒麦にたとえられている「悪い者の子ら」が、回心して、「御国の子ら」になる……というようなことは、ここでは全く考えられていないんですね。
 先ほどお読みしました「知恵の書」の著者は、誰であれ我々人間には悪からの回心の余地が与えられていると考えた。しかし、今回のマタイ福音書の箇所では、「毒麦」にたとえられるような人間には、そもそも「回心」の機会など用意されていないと言われている。……これは大きな違いですよね。

たとえ話の解説はイエスの真正の言葉か?

 これを聴いて、皆さんはどう思われるでしょうか。僕は、なんとなく、旧約聖書の「知恵の書」のほうが、イエス・キリストの教えに近いのではないかなと思ってしまうのですが、いかがでしょう。マタイ福音書に示されているイエスのたとえ話とその解説の内容は、どうも、僕らの知っているイエスの教えと相容れないものなのではないかと思わずにはいられないんですよね。
 イエスが公の場で人々に向けて放った第一声。それは次のような言葉であったと伝えられています。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)悔い改め、つまり人々に「回心」をするよう促す一言から、イエスの活動は始まっていったわけなんですね。また、イエスは次のような言葉も語っています。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)
 これらの言葉から推察するに、イエスが人々に対して「悔い改め」を求めたのは、ほぼ間違いないだろうと思います。しかもそれは、ある特定の人たちに対してだけとか、一部の人を除いた形で……というのではなくて、全世界に向けて、すべての人に向けて宣言された言葉だったと理解すべきだと思います。
 それでは、今回のマタイ福音書の箇所にはどうして、「悪い者の子ら」と呼ばれる人たちに「悔い改め」の機会が与えられていないというようなことが書かれているのでしょうか。今回のお話を準備するにあたって、凄くこのことに悩まされました。イエスはこんなこと言うはずないのに、どうして、マタイ福音書にはこんなことが書かれているんだろう?と。そして、いろんな聖書の解説書を開いて調べてみました。すると……。やっぱり聖書学って奥が深いですね。聖書学の研究者の人たちが、ギリシア語の原典を頼りに、マタイ福音書でよく使われる言葉とか、他の福音書でイエスが使っていない言葉とか、そういうのを細かく分析した上で、ある一つの答えを提示してくれていました。それは、この“たとえ話の解説部分”は、どうやら、イエスの真正の言葉ではない、というものでした。イエス自らがたとえ話の解説をしたのではなく、後の時代の人たちによる後付けの解釈、あるいはこの福音書を書いたマタイさんの考えがここに反映されているのだという答えです。もちろん、実際はどうか分かりません。天国でマタイさんに聞くしかないです。でも、僕もそうだと思います。このたとえ話の解説は、イエス自身の言葉ではない。何故なら、前半の「たとえ話」の内容と、後半の「解説」の内容が、どうしても辻褄が合っていないように感じられてならないからです。
 そもそも、この箇所に関しては、先ほども少し触れましたように、最初から違和感のある箇所でありました。イエスはたとえ話の解説をしないんですよね。語りっぱなしで、後のことは(つまりそのたとえ話をどう理解するかは)聴き手に任せるというスタンスであったはずなんです。けれども、この箇所には(ご丁寧なことに)たとえ話の解説が記されている。そして、その解説は、どうもイエスの他の教えと相容れない内容になっている。そうであるならば!少なくともこの解説部分については、真正のイエスの言葉ではないと捉えるのが無難だろうと思うんですね。マタイさん、あるいは他の誰かの考えに基づいて書かれたたとえ話の解説であると、そのように受け取って、我々は我々で、あらためてこのたとえ話はどういう話なのかというのを解釈すればよいのだと僕は思います。

良いことと悪いことは表裏一体

 「『毒麦』のたとえ」に出てくる「麦」と「毒麦」は、36節以下の解説で言われているような「正しい人」と「悪い人」を指しているのではなくて、「善/悪(良い/悪い)」という概念そのもののことを言っていると考えてみればどうでしょうか。何が良くて何が悪いのか、というのは、実は見極めるのが非常に難しいもの。「善と悪は表裏一体」とも言われるように、善と悪を区別する普遍的な基準というのは存在せず、時代や文化、その時々のシチュエーションによって、何が良くて何が悪いかというのは常に変わってくるものです。そうであるにもかかわらず、性急に「善」や「悪」というのを二元論的に区別するのは危険だということを、このたとえ話は教えてくれていると読んでみれば、いかがでしょう、スッと腑に落ちる感じがするんですね。
 今日のたとえ話の中で、主人の僕たちが「今すぐ毒麦を抜き集めておきましょうか」と言ったことに対して、主人は「毒麦を集めるときに、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないから、両方ともそのままにしておきなさい」と命じていました。それは、麦を刈り入れる時、つまり、それが良いか悪いかを判断すべき時が必ずくるのだから、それまでじっくりと観察して分析して、見極めようとすることが大切だ、ということを伝えてくれているように思われます。そして、十分に吟味した結果、これは「悪いことだ」と思われたならば、その時に悔い改めればよろしい。重要なのは、最初から「悪いことだ」と決めつけないことだ――。これまで「悪い」と思われていたこと、何の根拠も無く「悪い」と決めつけられていたこと。でも、新たな視点から見てみた時に、いや、実は何にも悪くないんじゃないか、という答えに行き着くということがあります。人類の歴史はそのような連続だったのではないでしょうか。特に、宗教的なこと、文化的なことに多いような気がするわけですけれども、そのような反省を繰り返しつつ、新たな、その時々における「善悪の基準」というものを我々人類は築いていっているのだろうと思います。良いか悪いかは、今回の「知恵の書」の箇所にも記されていましたように、まさに“神の間”をもって、充分に吟味されるべきだ。もし、そのようなメッセージがこのたとえ話の中に込められているのだとしたら、これぞまさに“イエスらしい”律法主義に対する挑戦のような教えではないかと僕は思います。

おわりに

 子育てをしておりますと、つくづく、今回のイエスの教えの大切さを痛感します。どうしても、我々大人は、自分たちの目線で、自分たちの常識、経験則から、子どもに対して「これは良いこと」「これは駄目なこと」というように言ってしまいがちですけれども、実は、それはイエスに言わせてみれば「毒麦を麦と一緒に抜いてしまうかもしれないリスクを伴う行為」なのかもしれません。なにが良くて、なにが悪いのか、というのは、それを判断する前に、充分に吟味する必要がある。もしかすると、それは自分の考えの押しつけじゃないか。自分には当てはまるけど、他の人には当てはまらないのではないか。子どもに対して「これは駄目」と言うことで、実はその子の良い部分も否定することにはならないか。そんな風に考えさせられます。
 これは、子どもだけではありません。我々大人同士も同じですね。「知恵」によって、我々は善と悪をある程度見極めることができます。けれども、“本当の知恵”とは、今回の旧約テクストが教えてくれていたように、忍耐すること、寛容と慈悲によってじっと待つことでした。神は我々人間のことをじっくりと吟味して、自分たちで善と悪を丁寧に区別することを待ってくださっている。僕らがお互いに、寛容さをもって、相手を尊重しつつ、健全な関係を築いていくことを求めておられる。そのような中で、自然とこの世界から「悪」と呼ばれるものが、少しずつ、また少しずつ、取り除かれていくのだろうと思います。この世界から悪が完全に失われていない、ということは、すなわち、神がまだ人間に期待してくださっているということです。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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