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洗礼 〜はじめて正式に神と向き合う瞬間〜

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詩編・聖書日課・特祷

2024年2月18日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 創世記9章8〜17節
 詩 編 25編4〜10節
 使徒書 ペトロの手紙一3章18〜22節
 福音書 マルコによる福音書1章9〜13節
特祷(大斎節第1主日)
四十日四十夜、わたしたちのためにみ子を断食させられた主よ、どうか己に勝つ力を与え、肉の思いを主のみ霊に従わせ、常にわたしたちがその導きにこたえ、ますます清くなり、主の栄光を現すことができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられるみ子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 紫のシーズンになりましたね。大斎節です。「レント」とか「四旬節」などという言い方もありますけれども、僕がもともと所属していた日本キリスト教団では、「大斎節」という呼び方を使っていませんでしたので、「大斎節」と言うと、「あぁ、聖公会らしいなぁ」と感じます。なので、個人的には、結構この呼び方が好きだったりしますね。
 さて、先週の水曜日の「大斎始日」、いわゆる「灰の水曜日」という日から、「大斎節」の期間が始まりました。灰の水曜日から数えて46日……、(主の日である)日曜日を除くと“40日間”大斎節を過ごしたのちに、やってくるのが「イースター」ですね。イエス・キリストの復活をお祝いする「イースター」を迎えることになります。
今年のイースターですけれども、何月何日か、皆さんご存知ですか?今年はめっちゃ覚えやすいんですよ。今年のイースターは「3月31日」なのです。イースターが3月31日(3月の最終日)って、なんか良いですよね。キリが良いと言いますか、何と言いますか……。イースターをお祝いして、その翌日(4月1日)から、新しい気持ちで新年度を迎えられそうな感じがしますよね。

初心にかえる

 さて、そのイースターまでの期間である「大斎節」ですけれども、この期節には、自らの信仰生活を振り返りつつ、いま一度、主の御目に正しい生き方を心がけることが勧められています。
 まぁ皆さん、ね、今でも充分、信仰深い生活を過ごしていらっしゃることと思いますけれども(笑)、それ以上に!ということではなくて、言わば「初心にかえりましょう」ということなんですよね。イースター(復活日)というお祝いの日の前に、キリスト者皆、ベテランの人たちも、まだ日が浅い人たちも関係なく、まさに初心にかえる気持ちで、基本的なところから信仰生活を立て直そうではないですか、というのが「大斎節」であるわけなんですね。
 我々クリスチャンの信仰生活というものは、多くの場合、「“洗礼”を受ける」という出来事からスタートしていったと言えるのではないでしょうか。もちろん、その前から……、つまり、洗礼を受ける前、教会に通い始めた時から、あるいは幼児洗礼で後に堅信をされたという方々は、その堅信に至る前から、すでに神様への信頼の思いは持っておられたかもしれません。それでもやはり、自分の意志で、洗礼、また堅信への思いを抱き、それを選び取っていくというのは、人生における重要な決断の時でありますし、その志の大きさはどうであれ、そこから、生まれ変わった各々の新たな生活が始まっていくものなのではないかと僕は思うのですね。
 そのような信仰生活の“始まり”を、今、思い起こす。洗礼、堅信を受けた、あの頃の自分ってどんな感じだったかな?と振り返りながら、初心にかえる。そのような期間として、この「大斎節」を過ごしていければと思います。

ヨハネからイエスの弟子たちへ

 今回の聖書日課でも、「洗礼」に関するテクストがいくつか選ばれておりました。一つは、マルコによる福音書1章9節以下。イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けるシーンですね。そしてもう一つは、使徒書。ペトロの手紙一3章18節以下ですね。キリスト教の洗礼とはどういう儀式なのか、ということを説明してくれている箇所です。
 マルコ福音書や、あるいはマタイやルカも伝えてくれているように、「洗礼」という儀式は、元々は、ヨハネという人物に由来する儀式であったとされています。ヨハネが考え出したものなのか、それとも、彼が始める以前からユダヤ教の中で密かに行われていたものなのかは分かりませんけれども、いずれにせよ、彼がヨルダン川で「洗礼」という儀式を行なっているところに、人々がどっと押し寄せて(現代風に言うと「バズった」!)、みんな罪を告白し、洗礼を受けたのだと、そのように福音書記者たちは伝えてくれているのですね。そして、その場所にイエスもやってきて、彼から洗礼を受けたというわけです。

Alexander Ivanov “The Appearance of Chirst before the People” (1837-1857)


 ただ、その後のことがちょっと謎なんですよね。と言うのも、そのヨハネの「洗礼」が、いつの間にか、イエスのグループ、つまり原始キリスト教会の中で行われるようになるのです。イエスの弟子たちは、洗礼者ヨハネ及びヨハネの弟子たちが行なっていた「洗礼」という儀式を、“自分たちのもの”として取り込んでいったのですね。その経緯に関して、新約聖書には一切何も書かれていません。なので、当時どのような流れで、彼らが「洗礼」を行うようになったのか、今となっては全く分からないんですね。
 まぁ、ヨハネの洗礼を「おっ、えぇやん」ということで勝手にパクッた、ということではさすがにないと思うのですけれども……。たとえば、第四福音書であるヨハネ福音書を読んでみますと、「実は、イエスの弟子たちの何人かは、元々ヨハネの弟子だった」というようなことが書かれていたりするんですよね(ヨハ1:35以下)。なので、どこかのタイミングで、洗礼者ヨハネの弟子たちの一部が、イエスのグループに合流して、そうして、その加わった人たちが「洗礼」という儀式を持ち込んだのかもしれない――というのは、十分考えられる話なのではないかと思います。

悔い改めと復活の洗礼

 ただ、そうしますと、新約聖書の時代には、一時の間、“イエスのグループ”と“洗礼者ヨハネのグループ”(どちらも指導者不在)、この二つのグループが存在して、そしてそれぞれに、洗礼を行なっていたということになるのですよね(ヨハ3:22〜4:3参照)。彼ら2つのグループのうち、軍配が上がった……というか、より勢力を拡大していくことになったのは、その後の歴史が示しているように、イエスの弟子たちのほうでした。洗礼者ヨハネのグループは、徐々に衰退していって、次第に歴史の表舞台から姿を消していくことになります。
 どうして、イエスのグループ、つまり原始キリスト教のほうが発展したのか。その要因になったのは、まぁいろいろと理由は考えられると思いますけれども、おそらくは、イエスの弟子たちが、「洗礼」という儀式の中に、従来の「悔い改め」という要素に加えて、「復活」という“要素”を取り入れたから、というのが一番大きかったのではないかと、僕は思うのですね。パウロも語っているように、「洗礼によってキリストと共に葬られ、[……]キリストが[……]死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きる」(ロマ6:4)というメッセージが込められているのが、キリスト教の「洗礼」なのですよね。「悔い改め」というのは、過去から現在までに目を向けることですけれども、そこに「復活」が加わることで、過去から現在、そして未来へと範囲が広がることになります。そのような“未来”への希望を抱かせてくれる新しい「洗礼」という儀式に、多くの人々が心を惹かれたのではないかと想像するわけです。

洗礼は清めるための行為ではない

 皆さん、ご存知のことと思いますけれども、「洗礼」という儀式は、元々は「水の中にどっぷり浸かる」という手法が取られていたんですよね(今でも、バプテスト系の教会では、「洗礼槽」というものがあって、その中に全身をどぼんと浸けるっていう洗礼の方法を実践しています)。

水の中から見た水面


 この「水の中に浸かる」っていうのは、第一に、体に付いているホコリやゴミを洗い流して綺麗にするっていう効果があります。沐浴(もくよく)とも言いますよね。でも、今日の使徒書の箇所では、「洗礼はそういう目的でするものではない」と書かれていました。第一ペトロの3章21節ですね。「洗礼は、肉の汚れ(よごれ/けがれ)を取り除くことでは[ない]」。日本語の聖書はこれを(宗教的な意味と捉えて)「けがれ」と読んでいますけれども、原語的には、別に(一般的な)「よごれ」と読んでも大丈夫です。というか、実際のところ、どっちを意味しているのか分からないのですよね。単なる身体の「よごれ」のことなのか、それとも、宗教的な「けがれ」なのか。
 むしろ、ここで重要なのは、「洗礼」という行為は、いまお話したように身体の「よごれ」を綺麗にするものでもないし……、さらに言えば、宗教的な「けがれ」を清めるものでもない、ということなのです。身体の清めでもなければ、霊的な清めの行為でもない、ということです。

神への善き良心の“お伺い”

 第一ペトロは、先ほどの箇所で、このように続けていました。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」
 神に正しい良心を願い求めること――。この日本語訳、実は問題ありなのですね。これだと、「“正しい良心”をください!」って神様に願っているように読めてしまいます。でも、原文にはそんなこと書かれていないのですね。そこで、なるべく原文に忠実に訳してみた結果がこちらです。「神への善き良心の“お伺い”である。」
 これ、どういうことかと言いますと、洗礼を受けようとしている人の内側には、もうすでに、「善き良心」があるということなのです。別に洗礼を受けたことで、何かが変えられて、善き良心が与えられるわけではない。そうではなくて、洗礼を受ける前から、人は誰でも「善き良心」というものを持っているものなのだという、人間存在の大前提を示してくれているように感じます。
 そして、その善き良心をもって、“お伺い”……ですね。つまり、たとえるならば、あの少年サムエルのように、「主よ、お話ください。僕(しもべ)は聞いております」(サム上3:9,10)と言って、初めて(正式に)神と向き合う――。そのために、「洗礼」という瞬間を迎えることを、キリスト教会は今日に至るまでずっと、世に呼びかけてきたのだと言えるかもしれませんね。

少年サムエル

おわりに

 何度も言うように、洗礼というのは、それを受けることによって何かが果たされたり、何かが変わったりするわけではなくて、洗礼とはむしろ、信仰者として“新しい人生の扉”が開かれる瞬間です。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときのことを想像してみますと、おそらく、ほとんどの人々が、ヨハネから「悔い改め」の洗礼を受けたあと、スッキリした気持ちで、また元の生活に戻っていたことだろうと思います。けれども、イエスは違ったんですよね。人々とは違う方向へと向かっていきます。一人、「荒れ野」へと足を踏み入れていくのです。つまり、他の人たちと一緒に今までの生活に戻っていくのではなくて、それまでとは全く違う人生へと進んでいったわけですね。「悔い改め」から「新たに生まれ変わる」という、キリスト教の洗礼のロールモデルが、まさに、この箇所のイエスの姿を通してはっきりと示されているのです。
 この「大斎節」という特別な期間において、かつて洗礼を受けた“あの頃”の自分のことを振り返って、「初心にかえる」ということを大切にしたいと思います。それと同時に、キリスト者として歩み始めた“あの時”から、今に至るまで、喜びだけでなく悲しい思いをしたり、つらい経験をしたりすることもあったかもしれませんけれども、しかしどんなときにも、絶えず神がともに歩いてきてくださったのだということを思い起こしながら、また、前を向いて未来へと進んでいければと願っています。
 イースターまでの約40日間、皆さんお一人お一人が、実り豊かな毎日を過ごせますように。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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