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風と共にシャローム

日本聖公会・愛知聖ルカ教会

礼拝:毎週日曜日 午前10時30分〜正午
(実際に礼拝の中でお話を聴きたいと思われる方はぜひ上記時間に教会へ足をお運びください。お話の内容は社会情勢などに合わせて急遽変更する場合があります。)

2022年6月5日(日)聖書日課

使徒言行録:2章1~11節
詩編:104編30~35節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 12章4~13節
福音書:ヨハネによる福音書20章19~23節

上記データは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

特祷

全能の神よ、この日あなたは、約束された聖霊の降臨によって、すべての民族、国民に永遠の命の道を開かれました。どうか福音の宣教によって、この聖霊がますます世界に注がれ、地の果てにまで広がりますように、聖霊の一致のうちに父と一体であり、世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

はじめに ~千の風になって~

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1~4)
 このような出来事があったと、新約聖書は伝えてくれている。このテクストの中には、二つの注目すべき言葉が出てくる。一つは「風」、そして、もう一つは「霊」である。「風」と「霊」。……この二つの言葉を聞くと、何となく“あの有名な一曲”を思い出すのではないだろうか。「私のお墓の前で 泣かないでください」。ご存知、『千の風になって』という曲である。「千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」。(作詞:不詳/日本語詞・作曲:新井満 ※作詞者および日本語詞作者に関しては諸説あり)
 「霊」という言葉こそ、この歌詞の中には出てこないものの、人間の霊、あるいは魂というものを「(大きな空を吹きわたる)千の風」という言葉で比喩的に表現している。この説教を準備しているときに初めて知ったのだが、元々この曲の歌詞は、英語で書かれたものだった。1932年に、アメリカのボルティモアに住んでいた一人のアメリカ人女性によって書かれたものだったらしい。僕はてっきり、この歌の歌詞は日本で生まれたものだと思い込んでしまっていた(同じように勘違いしていたよという方、正直に手を挙げてください……)。本来は、日本の伝統的な宗教観・死生観とは異なる価値観で作られた歌詞であるはずなのに、不思議と、この国の多くの人々の心に響く、そんな一曲である。そして、先ほどの聖書の箇所に出てくる「風」と「霊」という言葉。この二つの言葉を見たときに、僕はふと、この歌を思い出したというわけなのである。

風、霊、そして息

 「風」、そして「霊」。この二つの言葉が、今日の使徒言行録の箇所のキーワードになっているのであるが、本日の聖書日課として選ばれている他の箇所を読んでみると、もう一つ、似たような言葉が出てくることに気づかされる。「詩編」のテクストとして選ばれている104編、その30節に出てくる「息」という言葉である。「あなたが息を送られると、すべては生き」(30節)というように、(ダジャレのような感じではあるが)「息」という言葉が使われている。なかなか「粋(いき)」な翻訳だなぁと思う。神様が「息」を送られると、神に造られしものたちは皆「いのち」が与えられるのだと、そのような内容となっている。
 同じように、今度は“福音書”のテクストとして選ばれている「ヨハネ福音書」20章を見てみると、22節のところで次のように書かれている。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」……「息を吹きかける」。今のこのご時世だと絶対にやったらアカンことだが、まぁこの時は大丈夫だったということにしておこう。イエス・キリストは弟子たちに「息」を吹きかけ、そして「聖霊を受けなさい」と彼らに言った。ここでは、「息」という言葉が「霊(聖霊)」との関連の中で使われている。イエスが直接弟子たちに「聖霊」を与えたというよりかは、むしろ、イエスがいなくなった後で“神によって”聖霊が与えられるのだよ、ということを「暗示する(ほのめかす)」行為として、イエスは彼ら弟子たちに「息」を吹きかけたのだと、そう理解するほうが良いのではないかと思う。当然、このイエスの行為の裏側には、先ほどの詩編に書かれていたような理解、すなわち「神の息吹によって被造物は生かされているのだ」という、そのような古の時代から受け継がれてきた死生観・宗教観というものが前提とされているわけである。

「πνέω(吹く)」の派生語

 ……と、ここまでお話してきて、皆さんも何となくお察しいただけているのではないかと思うのだが、今日の聖書日課のテクストに散りばめられている「風」「息」、そして「霊」という、これら三つの言葉。これらはみな、実は、聖書の中では“ほぼ同じ意味の言葉”として(あるいは互いに関係の深い言葉として)使われている言葉なのである。
 日本語で「風」、「息」、「霊」と言うと、これはどれも全く違う意味の言葉になる。「風」というのは、空気の流れのことを指す。ある程度の強さをもって空気が動くことを、我々は「風」と呼んでいるわけである。また、「息」というのは、言い換えれば「呼吸」のことであって、生き物が空気を吸ったり吐いたりすることを「息」と呼んでいるのである。「霊」と言うと、これはもうまるで性質の異なるものである。“非科学的”なものと言っても良いかもしれない。生き物たちが持つ「いのち」のことを指したり、あるいは、「死者の魂」のことをそう呼んだり、更には、何か神秘的な、人知を超えた超自然的な力のことを、我々は「霊」と呼んでいる。このように、少なくとも日本語においては、「風」、「息」、そして「霊」というこれら三つの言葉というのは、全く違う言葉として使われるものなのである。
 しかしながら、『聖書』の中ではどうかと言うと……? 先ほどからお話してきているように、これら三つの言葉は多くの場合、ほぼ同じ意味の言葉として(同義語あるいは類義語として)使われている。というよりも、もう少し厳密に言うならば、これら三つの言葉というのは、聖書の元々の言語(原語)とされるギリシア語においては、“たった一つの言葉”に由来している。ギリシア語の「πνέω(吹く)」という動詞。その動詞から「πνεμα」「πνοという二つの言葉が派生してできた。どちらも根本的には「吹くもの」という意味であり、若干の言葉の違いはあるものの、意味としては全く変わらない(何か良いたとえは無いかなぁと思って色々と考えていたのだが、ちょうど昨日、美容室に行ったときに思いついた。「髪」と「髪の毛」。言い方はわずかに違うけれども、意味は全く同じ。それと一緒である)。しかし、ただ日本語で「吹くもの」と言っても何のこっちゃ分からない。だから、これらのギリシア語の言葉を日本語に翻訳する際に、その前後の内容(文脈)に合う形で、「風」とか、「息」とか、「霊」という言葉に上手に訳し分けているということなのである。
【参考】
 ①使徒言行録2:2「風」…… πνοή
 ②LXX詩編103:30「息」…… πνεῦμα
 ③第一コリント書12:4ほか「霊」…… πνεῦμα
 ④ヨハネ20:22「(聖)霊」…… πνεῦμα

目には見えないけれども何かを動かす神の力

 古の時代の人々は、現代の我々のように、「風がどこからどうやって吹いてくるのか」とか、「生物はどうして呼吸をしているのか」といったような、そういう“科学的”な事柄については全く知らなかった。そりゃそうである。気圧の高い方から低い方に空気が押し出されることによって「風」が発生する? また、酸素を取り入れて二酸化炭素を出すために動物は息をしている? そんなこと、大昔の人々が分かるわけがない。
 では、古代の人々はどのように考えてきたのか。それはまさに「見たまんま」、つまり「観察」をすることによって、自然の摂理というものを合理的に理解しようとしていたのである。「風」とか「息」というのは、どちらも同じように「目には見えない空気の流れ」である。だから、ギリシア語ではただ単純に「吹く(πνέω)もの」と呼んでいたわけである。しかし、「どうしてそれらが起こっているのか」というメカニズムまでは分からない。だから、それは単純に「起こるべくして起こっている」自然現象、あるいは、人智を超えたものであるから、時にそれらは「神の力」なのだと、そのように人々は理解したのだろうと想像する。
 追い風が吹けば、帆を広げた舟は前に進んでいく。逆に、向かい風が吹いてくれば、舟は前には進んでいかない。ただ、それだけのことと考えた人たちもいるだろうし、その風のことを「神の力」として、神様が「風」を送って我々の船旅をコントロールしておられるのだと考える人々もいただろう。
 また、生き物というものは、呼吸をしているから生きているのであって、呼吸が止まってしまったら(つまり、身体の中で出たり入ったりしていた「息」というものがその循環を止めてしまったら)、それは「生きていない状態(死んでしまった)」、まさに“見たまんま”のことである。それを宗教的な表現にするならば、「呼吸が止まり生き物が死んでしまった」ということは、すなわち、神がその動物から「息」を取り去られたのだと、そのように古代の人々は理解していたわけである。
 「霊」というものに関しても、しばしば古の時代の人々は、実にシンプルに「風」や「息」と同じように理解していた。つまり、「目には見えないけれども何か力を持っているもの」。聖書の中には、「聖霊」とか「悪霊」というような言葉が出てくる。聖霊(聖なる霊)は、人間を良い方向へと後押ししてくれる力のことであり、悪霊(悪い霊)というのは逆に、人を悪い行いへと進めようとする力のことである。聖霊=良い風、悪霊=悪い風と、そのように言い換えても良いかもしれない。まぁ、その「風」に身を任せるか抗うかは、その人自身にかかっているのだろうけれども、とにかく、良くも悪くも人間の心を揺り動かしてくる“見えない力”のことを、聖書の時代の人々は、「風」とか「息」といったものと全く同じ「吹くもの(吹いてくるもの)」、そういう超自然的な力、あるいは「神の力」として信じていたわけである。

アバウトな古代人の考えが「羨ましい」

 ……いかにも古代人らしい考えだなぁと思う。すごく“アバウト”な感じ。科学が身近なものとなっている我々現代人には、なかなか受け入れにくい考えである。でも、何となく、そういう古の時代の人々のことを「羨ましいなぁ」と思ってしまうのは、僕だけだろうか。
 この世界で起こる様々な自然現象に関して、大抵の場合、それらは科学的に、理論的に証明できてしまうというのが、この21世紀、2022年という時代である。もちろん、まだまだ分からないこともたくさんあるけれども、それも今後、研究が進んでいくうちにどんどんそのメカニズムが解明されていくことになるのだろう。「科学」があるからこそ、我々人類は(以前の時代までには得ることのできなかったような)幸福と安寧というものを手に入れることができるようになった。医療の進歩は特にそうである。これまでだったら治らなかった病気が治るようになってきたし、また、肉眼では絶対に見えないウイルスや細菌などから身を守ることができるようにもなった。これは本当に凄いことである。
 しかし、その一方で、「風」や「息」や「霊」というものを“まるっと”にひと括りにして「目には見えない神の力」というように理解してしまう……、そういう古代の人々の持っていたアバウトな感じ。僕は、(特に自分自身が非常に“理屈っぽい”人間だからこそなのだろうけれども)「羨ましいなぁ」と思ってしまうのである。目に見えないものは全て、人間の領域ではなく神の領域のもの。「風」、「息」、「霊」、全部一緒。人智を超えた神様の力のこと。あるいは、空の上のこと、地面の下のこと。海の向こう、海の底。見ようと思っても見れない。だからもうそこは全て“神のみぞ知る”世界。良いじゃないか、このさっぱりした感じ!
 「知りたい」という欲求は、今も昔も変わらないかもしれない。人類は「知らないことを知りたがった」からこそ、知るための道具を生み出し、そうして「今まで知らなかったこと」に次々と到達してくることができたのである。それは素晴らしいことである。ただ、「知る」というのはつまり、「人間の生涯」に喩えるならば、それは「大人になること」だと、そのように言い表すことができると思う。大人になったらもう、子どもの時代には戻れない。アバウトで大雑把で、無意識のうちに“神の領域”というものを侵害しなかった時代に、人類は戻ることはできない。知らなかったことを「知ってしまったから」。大人になってしまったから。だからこそ、どことなく古代の人々のことが「羨ましい」と感じてしまうのである。

おわりに

 ……な~んてコトを考えてしまうのはきっと、心が疲弊しているからなのだろう。あるいは、心が言わば「酸欠状態」になりかけているからなのだろうと思う。慌ただしいこの現代社会の中で、まさしく「息が詰まる」思いをしている人、大勢いらっしゃることだろう。ちょっと「風」を感じた時に、あるいは深呼吸をした時に“生きている実感”が湧いてくるのは、やっぱり身体も心も「酸欠状態」だからなのだろうと思う。
 イエスの弟子たちは、頼りにしていたイエスがいなくなってしまい、また周囲からの恐怖に怯えながら、まさに「息を殺しながら」過ごしていた。しかし、ある時を境に彼らは、それまでとは全く異なる生活を始めるのである。その時のことを、使徒言行録の著者であるルカという人は、「彼らは聖霊に満たされたのだ」と書いてくれている。彼らは聖霊の力によって、急に“元気”になったのである。
 その後、彼らイエスの弟子たちは、知りもしない外国の言葉を喋り始めて、それを聞いていたユダヤ人たちはびっくらこいて……というようなことが書かれているけれども、語弊を恐れずに言えば、そんなことは実は大して重要ではない。「キリスト教の教えがユダヤ人だけでなく他の国の人たちにも伝えられていったのですよ」という歴史的事実の“始まり”を、ルカさんなりの表現でこのように劇的な感じで描いただけである。……というように言い切ってしまうと、どこかから石が飛んでくるかもしれないので、「いや、ひょっとすると本当にあった出来事なのかもしれませんねぇ~」。
この箇所で最も大切なのは、心も身体も“酸欠状態”になっていたイエスの弟子たちが、何かの出来事をきっかけにして「解き放たれ」、胸いっぱいに“酸素”を吸い、そして思う存分「ハーッ!」と勢いよく息を吐き出せるようになったことなのである。彼らの身に何が起こったのかは正直分からない。まぁこのあと、弟子のペトロたちは普通にユダヤ教の神殿に行ったりしているので、おそらく、「もう大丈夫だ」ということで、苦難のときが過ぎ去ったことが分かったからなのだろう。彼らは解放された。生き返った。神様が彼らに「息」を送ってくださった。イエスが生前に彼らに約束した通り、「聖霊」が彼らに与えられた。
そのような「解放」の喜び・充足感こそ、実は「キリスト教」という宗教の根底にあるものなのだということを、本日、「聖霊降臨日(まさにキリスト教が始まったことを記念する日)」に、ぜひとも覚えたいと思うのである。
 「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」。……そりゃそうだ。死んでもなお真っ暗な狭い所に閉じ込められるなんて真っ平御免である。あの歌が大ヒットしたのはきっと、日本人の宗教観にマッチしたというよりも、むしろ我々現代人が、まさに今、大きな空を吹きわたる風のように「自由」と「解放」を求めているということが関係しているのかもしれない。キリスト教は「解放」の宗教である。我々一人ひとりにとっても、そして世のすべての人々にとっても、イエスの福音はまさに「心に酸素を供給してくれる」素晴らしい喜びの知らせであると、僕は信じている。
心を「換気」しよう。そして心から「歓喜」しよう。最後にサヨナラホームラン級のダジャレが飛び出したところで、今日の説教はこれでおしまい。……それではまた次回。

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