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生きてほしいから

日本聖公会・愛知聖ルカ教会

礼拝:毎週日曜日 午前10時30分〜正午
(実際に礼拝の中でお話を聴きたいと思われる方はぜひ上記時間に教会へ足をお運びください。お話の内容は社会情勢などに合わせて急遽変更する場合があります。)

2022年5月29日(日)聖書日課

使徒言行録:16章16~34節
詩編:24編
福音書:ヨハネによる福音書17章20~26節
※「朝の礼拝」のため使徒書(ヨハネの黙示録22章12~14,16~17,20節)は省略します。

上記データは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

特祷

み子イエス・キリストに永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた栄光の王なる神よ、どうかわたしたちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください。そして救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

はじめに(主の昇天)

 今日は復活節第7主日「昇天後主日」と呼ばれる日である。
 かつてイエス・キリストは、十字架刑によって殺されてしまった後、死から3日目によみがえった(復活した)。そのように聖書には記されている。これは一般的にも良く知られていること。しかし、イエスの物語は、ただ復活して“めでたしめでたし”……というものではなかった。イエスは復活したあと、40日にわたって弟子たちに現れた(使徒1:4)、そのように新約聖書には記されているのである。「弟子たちに現れた」……さて、どんな風に?
 使徒言行録の冒頭の部分には、復活したイエスが弟子たちと「食事を共にしている」という記述がある(1:4)。よみがえったイエスは幽霊やおばけのように半透明な(スカッスカッと通り抜けてしまうような)、そういう霊体のような感じではなく、ちゃんとした身体があって、食事もできたらしい。他の新約聖書の箇所にも、イエスが“焼き魚”を食べている様子が描かれていたりもする(ルカ24:42)。焼き魚をムシャムシャと食べながら弟子たちと歓談しているイエスの姿を想像すると、なんとなく微笑ましい感じがする。
 弟子たちの方も、最初のほうは「えっ……、お亡くなりになられたはずやのに、復活なさって目の前におられる……。ヤバくない、これ? 素直に喜んでえぇやつ?」というように皆戸惑ったのだろうけれども、さすがに40日も一緒にいたら、彼らもその状況に慣れてきて、最後の方は本当に心の底から「イエスと一緒にいる」という現実を大いに喜んでいたことだろうと思う。
 ところが、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。復活したイエスが弟子たちと一緒に過ごしたのは「40日間」だった。イエスは死からよみがえった後、40日してから地上を離れ、天に昇っていった。そのように、聖書には記されているのである。
 このイエスが地上を去り、天に昇っていったという出来事を、教会では「主の昇天(あるいはキリストの昇天)」と呼んでいる。そして、イエスの復活をお祝いするイースターの日から“40日目”にあたる木曜日を、キリスト教では「昇天日」という特別な祝祭日として大切にしてきた。今年(2022年)に関しては、先週の木曜日が「昇天日」だったので、今日は「“昇天後”主日」(昇天日後の日曜日)とされているのである。

イエスがいつまでも地上にいてくれたなら……

 それにしても、どうしてイエスは、復活した後もずっとこの地上で暮らさなかったのだろうか。いつまでもこの地上で生活をして、人々に教えを説き、励まし、そしてこの世の中をイエスを中心としたより良い世界へと変えていってくれたら良かったんじゃないか。そのようにも思ってしまうのだけれども、実際にはそうではなかった。彼は復活後40日して、この地上を去ってしまった。
先日、フランスのとあるカトリックのシスターが「(存命中の)世界最高齢」としてギネス記録に認定されたというのがニュースになっていた。「シスター・アンドレ」という方なのだが、何と御年118歳!そんな彼女の長生きの秘訣は「仕事と他人の世話」だそうである。世のため人のために働くということは、回り回って自分のためにもなるということなのかなと思う。
 しかし、驚くのはまだ早い。そのシスター・アンドレがギネスに認定される“その前”に世界最高齢の記録保持者だったのは、先月の19日、119歳というお年で天に召された、日本人である田中カ子(カネ)さん。彼女もまた、なんとキリスト教の信者さんだったのである!日本バプテスト連盟「西戸崎(さいとざき)キリスト教会」という教会の信徒だったとのこと。これは単なる偶然なのか。それともやはり何か、信仰と長生きには関係があるのか?(これについては皆さんのご想像におまかせしようと思う。)
 話を戻そう。イエスは復活後、40日で天に昇っていってしまった。しかし、もし仮にイエスが、そのあともず~っとこの地上で過ごされていたのだとしたら……? もはや118歳とか119歳どころの騒ぎではなく、今ごろは「2000何十歳」という年齢で、変わらず若さを保ちながら、永遠に“現役”のリーダーとして、この世界を引っ張っていってくださっていたとしたら……? そう考えると、少し残念な気持ちにもなる。

「昇天」という出来事の意義

 イエスが復活した後にこの世界で過ごした期間は、1000年でも数百年でも、あるいは数十年、10年、1年でもなく、“たったの40日”だった。そのあと天へと昇っていってしまわれた。どうしてなのか?
 それは、先々週の日曜日の説教でお話させていただいたとおりである。すなわち、イエスが天へと昇っていかれたのは(正確に言うと、天に昇っていかなければならなかったのは)我々よりも“先に”天に行って、そこにある神の家に我々が憩えるように場所を用意するためだった……、聖書にはそう書かれているのである。「私の父の家には住まいがたくさんある。[……]あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。[……]行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2~3)
 そのように、かつてイエスは弟子たちに約束したらしい。だから、この地上にいつまでも留まるわけにはいかなかった。もしかするとイエス自身としては(そうしようと思えば)、何千年でも何万年でも、永遠にこの地上で生活することができたのかもしれない。けれども、我々“普通の人間”の寿命というのは、めちゃくちゃ長生きしてもせいぜい120歳くらい。先ほどお話ししたフランスのシスター・アンドレは、122歳まで、いや123歳まで!と意気込んでいらっしゃるようなので、彼女の健康を祈りつつ応援したいなぁと思うわけだが。それでも、誰だっていつかはこの地上での生を終えなければならない。みな平等に「死」というものを迎えることになっている。そのようにして「死んでしまった者」たちが露頭に迷うことのないように……、この世で人生を走り終えた者たちが「死」を迎え、その先で安息できる場所を用意するために……、イエスは「天」へと、すなわち「神の御もと」へと昇っていかれたのだと、そうやって古の信者たちは理解したわけである。
 今朝の「特祷」の言葉を御覧いただきたい。「み子イエス・キリストに永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた栄光の王なる神よ、どうかわたしたちを“みなしご”とせず、聖霊を降して強めてください。そして“救い主キリストが先立って行かれたところ”に昇らせてください。」この特祷の言葉は、「イエスの昇天」という出来事の意味を、非常に簡潔に、かつ分かりやすくまとめてくれていると思う。イエスがいなくなったこの世で、我々のことを見捨てないでください……。どうかわたしたちを“みなしご”にしないでください……。そして、イエスのもとにわたしたちも昇らせてください……。そのような祈りが、この特祷の祈りの言葉には込められているわけである。まさに今日、昇天後主日の祈りにふさわしい特祷の言葉である。

生から死、そしてイエスのもとへ

 また、今度は(先ほどご一緒にお読みした)詩編24編を見てみると、その中で2回、同じフレーズが繰り返されている(皆さんも読みながら気づかれたことと思う)。7節「門よ、扉を開け、永遠の戸よ、上がれ∥ 栄光の王が入られる」、そして、9節「門よ、扉を開け、永遠の戸よ、上がれ∥ 栄光の王が入られる」
 これはおそらく、古代のイスラエルの王様に関して詠まれた詩編だと考えられている。戦争で敵国に勝利した王様が、堂々とエルサレムへと帰還した(凱旋した)……、そのことをうたったものなのだろう。
 けれども、そのような古代の王の勝利と凱旋をテーマに詠まれた詩編を、今朝の聖書日課では、「イエス・キリストの昇天」という出来事に関連させて読ませようとしているのである。つまり、イエス・キリストは、この世での役目を終えて神の御もとへと帰っていった。それは、キリスト教の信者たちにとってはまさに「勝利の凱旋」として受け止められたわけである。そのような観点からあらためてこの詩編の言葉を読んでみると、確かにそこには不思議と“勝利者”イエス・キリストの勇姿が重なって見えてくるのである。
 福音書のテクストとして選ばれているヨハネによる福音書の箇所も、イエスの昇天の出来事に大きく関係している。今日は17章20節以下のところが選ばれているのであるが、この中で注目すべきは、21節の言葉。「父よ[※神のこと]、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 父なる神と子なるキリストが一つであるように、すべての人が一つとなるように……。更には、この世のすべての人が、神、そしてキリストと一つになるように……。もう少し分かりやすい表現に言い換えられているのが、その後の24節の言葉。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」実はイエスは、この一連の祈りを祈り終えた直後、敵対者たちに捕らえられ、無罪であるにもかかわらず十字架刑に処せられて殺されてしまうことになる。だが、そのイエスは復活した後、天に昇り、そして今、神の御もとで、すべての人が安息できる場所を用意して待ってくれているというのである。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」というこの祈りは、(前回の説教から再三にわたってお話してきているように)死を越えた先に、つまり「天(神の家)」に我々のための場所がもう既に用意されている、“だから安心してこの世の生涯を送りなさい”という、今を生きる者たちへの大きな大きな励ましのメッセージなのだと、そのように受け止められるべきものだと思うのである。
 キリスト教において、人の生涯というものは「『生』があって『死』で終わる」ものではなく、「『生』があって『死』がある」というように表現できるものなのではないだろうか。「生」や「死」は、永遠なる神との関わりの中では、実は“始まり”や“終わり”を表すものでは決してない。そうではなく、「生」は「生きている」という“状態”であり、「死」は「イエスのもとに迎えられる」ための“通過点”なのだ。人の人生は、神の御計画のもとにあって“常に継続していくもの”。そのことを、「イエス・キリストの昇天」という出来事は我々に教えてくれているのかもしれない。

自死を選ぼうとした看守

 最後に、とある一人の人物についてお話して終わりたいと思う。今日の聖書日課の中の使徒言行録16章に登場している「看守」、牢屋の見張りをしていた人についてである。この16章の記述によると、キリスト教伝道の旅を続けていたパウロ一行は、ある日トラブルに巻き込まれて牢屋に入れられてしまう。しかし、その夜に大きな地震が起こり、彼らが収監されていた牢屋が壊れ、囚人たちがいつでも脱出できるような状況になってしまった。牢屋の扉が独りでに開いたとしたら、誰だって「あれ?これって、逃げれるってことじゃね……?」と思うだろう。だが、その時牢屋の中に入れられていた囚人たちはというと、不思議なことに、パウロたちだけでなく全員が、誰一人として逃げようとしなかったそうなのである。パウロが引き止めたのかもしれないし、あるいは「どうせ逃げても捕まるだろうし、むしろその方がかえって罪が重くなるだろう」ということで、みんな冷静に判断した結果だったのかもしれない。
 重要なのはその後の話である。一人、慌てふためいている男がいる。牢屋の見張りを任されていた看守である。彼はその当時、“居眠り”をしてしまっていたらしい。その看守の男は、地震が起こって目を覚まし、「おぉ、めっちゃ揺れてるやん。大丈夫かなコレ」と最初は意外と落ち着いていたかもしれない。けれども、ふと牢屋の方に目を移すと、なんと扉が全部開いているではないか!彼はその状況を見てパニックになってしまった。それと同時に、彼の中に“大きな罪悪感”が湧き上がってきたのである。「自分が居眠りしていたせいで、囚人が全員脱走してしまった!?どどど、どうしよう!」
 本当は彼のせいではない。地震のせいなのだ。更に言えば、この時、パウロたちが収監されていた牢獄には、この看守の男一人しか配置されていなかったようである。明らかに“上の人間”が悪い。
 だが、もしも囚人の脱走が明らかになれば、責任を取らされるのはきっと彼なのだろう。しかも古代の話である。彼のような地位の低い人間は、あっという間に処刑されてしまうに違いない。そんな現実は、我々が想像せずとも、この時代に生きていた彼自身がよっぽど良く知っていたはずである。自分と同じような人間が、権力者たちによってまるで虫けらのように扱われ、ちょっと失敗しただけで、「お前はもう用無し。はい、さよなら」といって殺され、その人が本当にこの世に存在していたのかどうかも怪しくなるほどに、いとも簡単に消し去られてしまう……、そんなえげつない現実をこの看守の男はずっと見てきたに違いない。
 しかも、事が事である。居眠りをしていた間に囚人の脱走を許してしまった(実際はそんなことは起こってなかったのだけれども、彼はそう思い込んでしまっていた)。それに、地震というのは、古くから神々の怒りを表したものだと広く信じられていた。「プレートが他のプレートにもぐりこんで云々……」などというようなメカニズムは当然知られていなかったから。彼もきっと、この時の地震は神々の怒りを招いた結果だと信じていたことだろう。「もう駄目だ、おしまいだ……。明日の朝にはこの失態が明るみに出て、オレなんてすぐ殺されちまう……。ほんのちょっぴり居眠りしてただけなのに、どうしてこんなことに……。神様にも見放された。誰ももう助けてくれねぇ。……はぁ。くそっ!最悪だ!こんな世の中、生きてたって無駄だ!ろくな人生じゃねぇ。どうせ殺されるなら、自分から死んでやる!!」
 そう言って、剣を抜いた瞬間、牢屋の中からパウロが大声で叫んだ。

「自害してはいけない!!わたしたちは皆ここにいる!!」

 ……この後、看守の男はパウロとシラスにこう問いかけている。30節、「救われるためにはどうすべきでしょうか。」この言葉には、二つの意味が込められているように思う。一つは、キリスト教的な視点からの意味。すなわち、神の救いを得るためにはどうすれば良いかというものである。もう一つの意味は(意外とこういう聖書の言葉というのは文字通り読まれない傾向があるようだが)、まさに“文字通り”の意味。つまり、明日の朝には吹き消されて無くなってしまいそうな、この危機的状況からどうすれば助かるでしょうか、という切実な問いかけである。
 その二つの意味が込められた質問の答えは、実はもう彼が尋ねる前に、パウロが教えてくれていた。しかも大声で。
「わたしたちは皆ここにいる!!」
 「アンタのすぐ目の前にわたしたちがいるではないか!!」

 今日の使徒言行録の箇所、34節までしか選ばれていないが、その直後の35節のところで、実はパウロたちが釈放されたことが述べられている。どうやら、居眠りをしてしまった彼の失態は誰にもバレなかったらしい。単にラッキーだったのか? いや、そうではないだろう。パウロを含め囚人たち皆が彼のことを思って“沈黙”を守ったのだ。彼に“生きてほしかった”から。この箇所についてはそのように理解したいと思う。

おわりに

 ヨハネ福音書のイエスの祈りをもう一度読んで説教を閉じたいと思う。
21節「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、“すべての人を一つに”してください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 そして、24節「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」
 ……それではまた次週。

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