常識で考えることが・・・

「常識で考えることがいかに不合理かを肝に銘じよう。常識とは多数派の理論にすぎない。」

日本の実業家 三木谷浩史氏の名言です。


世の中の常識は、いつも手強いものです。

そんな風に感じさせられる常識が、多々あるように思います。


「普通はこうだから。」

「普通はそうしない。」

「そんなのは、非常識だ。」

そんな意見に対して、「どうしてですか?」

と問い返してみることがあります。


高い確率で、

「だって。。。」

「いやぁ。。。そのぉ。。。」

明確な回答を得ることができません。


そんなことを繰り返していくうちに、「いわゆる常識」というカテゴリを作り、違和感がある事象については、そのカテゴリに含めるようになりました。


「多分、そういうことだろう。そうであれば。。。」

そんな風に、次のアクションを考えたりするようになりました。

ときに、「いわゆる常識」とは、世の中の問題ではなく、その相手本人が、本人の常識に基づいて、「いわゆる常識」を定義していることの方が多いような気がしておりますが。。。


「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」

乗る前に馬を判断したり、添う前に人を判断したりする人がほとんどのように思う。

「人は見た目が9割」

という書籍が、全てを物語っている。


余談ではあるが、最近、確信していることがある。

「人は、9割の見た目を形成する中身が10割」

が正解であると確信している。


Getting back to the subject...

「利他の精神」

ここ数年、とても大切にしながら、いつも意識している。

万人が、「当たり前」と思っていることである断言したい。

「利他の精神」を持つことは、生きて行く上での「常識」であると信じたい。


が、その「常識」は、言葉の意味についてのみであり、行動に移している人はどれだけいるのだろう。

行動に移すことまでは、「常識」として捉えられていないということなのだろうか。


少し俯瞰して考えてみると、違和感を覚えることが多々ある。

「全うなこと」を書いている文章。

「全うなこと」を言っているスピーチ。

どれも、いわゆる「常識」として括って良いと考える。


が、「言うは易く行うは難し」なのだろう。

「行うは難し」故に、「行えなくてもしょうがない。」という解釈も「常識」として括られてしまうのだろうか。


違和感を覚えるか否かは、書いている人、言っている人の人間性次第のような気がしている。

偉人の格言、名言が、心に響くのは、そういうことなのではないだろうか。


巷に転がっている「常識」は、結構な割合で、理に適っていないことがある。

理に適っていないと感じたとき、どのようなアクションを起こすのか。

それが問われているような気がしている。


この名言により、少なくとも、「自分自身の中」で説明できないことを、「常識」として捉えることに疑問を持ち続けて行かなければ、と思わされた。


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