見出し画像

優しい世界を生きるということ

私が何をしても社会は変わりませんけれど、私の身近な世界はちゃんと変わるので、不器用なりに変えていこうと思うわけです。過去に辛くて、たくさん、居場所を変えてきました。真っ直ぐに言えば、転職です。それこそ、経歴を全て書こうとすると履歴書の記入欄が埋まるくらい。その中で、さまざまな企業形態と業務を経験してきました。そこに居た多種多様な人々と、ルールの見聞も。

どの場所でも用いられる、当たり前、普通、決まりごと。これらの言葉にはいつでも前置詞が隠れており、それは「この場においては」或いは「私にとって」。一人として同じ価値観を持つ人はおらず、ルールなど時と場合によって変遷するのです。

例えばですね。定時がきちんと機能する会社もあれば、定時何それ美味しいのと言わんばかりのオフィスも経験しました。理不尽を平気で通す上司や、丁寧に育ててくれる上司にも会ってきました。

こういったバラエティ豊かな道を通ってくると、思うのです。
何か言われても、不思議な行動を見ても、「そう思うに至った何かを経験してきたのだろうな」。「何か」の中身はルールかもしれないし、人からの影響かもしれない。何でもあり得る。
その経験は私には分からないので、いい意味で割り切れるんです。「完全には理解できない」。きっと相手も同じでしょう。

ここまでくると、思うのです。
「自由にやればいい」

場所を変えれば全てが変わると聞いたことがありまして、これは核心を突いているんじゃないかなと個人的に確信しています。場所を変えるとはつまり、そこに凝り固まって存在する価値観や風習、ルールから離れて、新たなそれらと出会うことですよね。新しいものが必ずしも馴染むわけではないかもしれませんが(それは身をもって体験していますが)、合わないものから距離を置く行為は、非常に有益であるはずです。

何故なら、合わないものに合わせようと形を整えた、或いは我慢で歪めた心は、元に戻すのに時間がかかるからです。

念の為補足ですが、これは何も、肌に合わないならすぐ辞めろとか、転職を推奨する意図ではないですよ。窮屈で息が詰まる思いをしているなら、このような選択肢もあるのではないか、というひとりごとです。まあ、往々にして、心を歪めてまで合わせる努力をしているときほど、無理していることに無自覚だったりしますよね。

話を戻して。
離れる、環境を変える。重要なのはその後。
「じゃあ、何したいの。どうしたいの」
変えることと逃げることの決定的な違いはここです。撤退のタイミングを見極めるのと同様に重要。

私はよく逃げていました。だから逃げ続けました。行き先が分からないので。
そしてあるとき変えました。優しい世界を目指して。

目的が定まると選定基準も自ずと明確になり、基準値を外れたものは自然と選択肢から外れて「やりたいことをやる」ようになりました。これ、結構楽しいですよ。昔の私が見たらワガママを通していると受け取るでしょうけれど、もう、今の私は「自由にやるので、もしよかったら自由に一緒にいてください。離れるのも、このまま隣にいるのもあなたの自由です。(奇跡的に長く一緒にいられたら嬉しいなあ)」な心持ち。

優しい世界の始まりは、自分に優しくすること。
優しくするとは、行動基準を誰かや何かに完全に明け渡さないこと。
自分の主観で気になったものを取り入れて、その後諦めたり方向転換してもそれは失策ではなく合わないものを見つける学習機会だっただけのこと。この経験がたくさん貯まると、おまけで柔軟性がついてきて、大概のことは「そういうこともあるのね〜」とフラットな視点で捉えられる。はず。

……長かったなあ、ここまで辿り着くのに。
私の場合は強いきっかけがあって一番底にある究極の願望「優しい世界に生きる」が見えましたけれども、どうかこれを読んでいるあなたは、あるときふとさりげなく気づけますように。


そして私は今、この優しい世界を私のものだけでなく、身近な世界に広げたい気持ちで動いています。誰もが自由であること、それが自然で、好きなものを好きと言える世界が、ふんわり包んでくれる明日を目指して。


<以下補足:具体的な広げたい気持ち>
1. オンライン一次創作展示販売会「みん好き 〜みんなの大好き大集合〜」
ジャンル問わず、好きなものを自由に楽しみ、同じ気持ちの人や作品と出会えたら嬉しいね、の場所です。

2 小説やイラストなど
割と色濃く出ているのは「愛情の記憶」。その他の作品にも共通して、目に見えないものや形にならないものの大切さや愛おしさを描くことが好きです(思い出、愛、過去の経験、信頼など)。

こんな感じかな。

ここまでお読みくださりありがとうございました。
どうぞ甘く優しい良い夢を。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?