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恥をさらしながら生きていく


自分の考え方や価値観って、日々自分が接するものによって影響されたり更新されていったりするものだと思っています。だから、ほんのすこし前に描いた漫画や文章であっても、どうしてこんなこと描いちゃったんだろうとか、なんて考え無しだったんだろう配慮に欠ける表現だったんだろうって思うことがたくさんあります。

自分ではウッと思っていても、そうでない方もいるし、感じ方は人それぞれだと思うので、ここではあえて何を指して私がそう感じているのかということは書きませんが、創作活動をしていると本当にそんなことばかりです。

別に漫画や文章だけじゃなくて、家族や友達や仕事関係の人と会話をしたときの自分の言動もそういうことあるなぁと思います。
「あのとき、私はどうしてあんなことを言ってしまったのだろう…」と、あとから思い出して恥ずかしくて死にそうになるやつ。

私はこれを「恥」だと感じているのですが、恥を感じるのは、自分の幼稚な考えが、他者に伝わってしまったという意識からくるものなのかなと思っています。誰の目にも触れず、誰にも伝わらなければ、自己完結するだけなので、少なくともここまで恥ずかしいと思うこともないよなぁと思うのです。「ああ、周りの素敵な人たちから、思慮深くて聡明でユーモアにあふれた成熟した大人だと思われたかった…それなのに幼稚でアホで考え無しな自分を晒してしまうなんて…なんてバカなことを…」というわけです。

じゃあ恥を感じないために、どうしたらいいのかというと、何もしないことに尽きると思うんですよね。

新しいことを学ばない(=新しい価値観や考え方に触れない)
新しいものを創らない(=自分の価値観や考えを表明しない)

こういうことになるのかな…と。少なくとも既存の枠組みに収まっていれば、変化がないので過去の自分を振り返って恥ずかしくなることもないし、自分の意見を表明しなければ、誰にも何も伝わらないのであとから恥を感じることもありません。これで恥から自分を守ることができます。
よし!なんて完璧な計画!…とはならないところが人間の面倒なところです。

恥や勇気などについて研究しているブレネー・ブラウンさんという方が、
「恥や痛みを感じないように心を武装すると、喜びにも鈍感になる」
というようなことをおっしゃっています。

つまり、恥を感じることは「光が強いほど、影は濃くなる」理論に則っているということですね。痛みを自覚できるほどの豊かな感受性があるからこそ、たくさんの喜びも感じられるのだという…。

私は、短いのか長いのかもよくわからない人生で、せっかくなら喜びや幸せをたくさん感じたいので、恥は受け止めていくしかないのかぁと観念しています。このnoteの記事も、数か月後にはオエッとなっているかもしれないなと思いながら打ち込んでいます。

でも、不思議なことに、新しいことをどんどん学んで、自分の考えや価値観を表現しているのが自分ではなく他人なら、たとえその人がみんなに笑われて恥を感じるような場面であっても、挑戦していて素敵な人だなぁと思えるんですよね。なので、恥ずかしい!と感じた瞬間や、これはいずれ恥ずかしいことになりそう!と行動することを躊躇しそうになったときには、他人はそんなに気にしていないと自分に都合よく解釈するようにしています。

『人間失格』で「恥の多い人生を送ってきました」という表現を残した太宰治は、実はたくさんの喜び(悦び?)を享受していたのかもしれませんね…知らんけど。

そんなわけで私は、これからも恥をさらしながら生きていこうと思います。



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