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【小説】明日君と約束をした偽りの夢


前話





 月の遺産とは、その文字の通り、月の残した財産。

 それは人類からすればとんでもないものらしく、手に入れれば富も名誉も金も、何でも手に入るらしい。世紀の大発見、と月の遺産のことを教えてくれた彼女が言っていた。

「イオリ、ちゃんと朝ご飯を食べないといけないと教わらなかったか? 私は知っている、セナセの人間は一日に三回食料を蓄えて活動エネルギーを補充しているんだろう。それをしないと体が動かなくなって、死んでしまう」

 僕の後ろで饒舌に話す彼女をよそに、ネクタイを結ぶ。久しぶりだったため上手くできるか不安だったが、どうやら結び方は忘れていなかったらしい。

「人間には寿命があるんだ。身体的性によって差はあって、男性はおよそ八十一歳、女性はおよそ八十七歳。女性の方が寿命が長いのは健康意識の高さによるものだという分析もあるが、男性にも健康意識の高い人はいるだろう。理由をあげるのであれば、女性の方が少ないエネルギーで生きていけるからと言った方が生物学的で良い気がしている。同じ人間なのに差が出るのは、体のつくりに差があるからに他ないだろうな」

 結び終えたネクタイを整え、鞄に手を伸ばす。長く触っていない革鞄は固くなっていた。くたびれた形のまま放置していたせいで、鞄の形は歪んでしまっている。無理やり形を元に戻そうとすれば大体は元の姿を取り戻すが、完全には戻らなかった。鞄はこれしかないので、歪んだ鞄を持っていくしかない。

「ずいぶんとくたびれた鞄だな。夏中放置してもそんな風にはならないだろう。この世界の若者の多くは学校に通うと聞いたが、毎日学校に通っていればそんな風にはならないんじゃないか?」

 嫌なところを突かれて若干顔を歪めたが、彼女に察せられるのが嫌で咳払いをした。分かりやすすぎるだろうかと思ったが、それについて彼女が言及することは無かった。

「長らく学校に行っていないように見受けられる。ブレザーもまだ硬いな。ネクタイにしわが無い。毎日アイロンをしているのか? そんなふうには見えないが」
「……君は、朝からよく喋るな」
「話すことは脳の活性化につながる。良い一日を過ごすためには、早いうちに脳を活性化させないと一日を無駄にすることになるんじゃないか? 一日は二十四時間だろう、そのうち七時間を睡眠に当てれば残りは十七時間。……十七時間なんてあっという間だな、一瞬で終わってしまう。だが、月よりかはましだ。ここには娯楽がある。ゲームというものは初めて触ったぞ。短い間にこんなものを作ってしまったのか」

 興味津々にゲーム機を見つめる。幼い頃に買ってもらったゲーム機はクローゼットの奥で埃を被っていたのに、部屋をあさっていた彼女に引っ張り出されてしまった。
 電源の入っていないゲーム機のコントローラーを触る彼女。その姿だけを見ていれば、あの場所で僕の光となってくれた彼女そのものなのに。
「おいイオリ。昨日の続きはいつさせてくれるんだ?」
 口を開けば、それは彼女ではないと知らされた。彼女の皮を被った偽物は、話し方も、性格も全く違う。
 彼女はきっと、ゲームなんて知らない。人間の作ったものに興味を示してのめり込む人ではない。緑で目を癒し、水で体を清め、人と対話する。目の前の彼女は、一体誰だ?

「……君は、誰なの?」
「誰って、知っているだろう。月の遺産。イオリのところに行けと言われたから来たんだ。イオリのところに行けばセナセでも安心して暮らせると月が教えてくれたから」
「月は、どうしたの」
「さあ」視線は手元に落ちている。「死んだんじゃない?」
 コントローラーのボタンを連打している。僕の話に興味は無いようだった。
「月と約束したんだ。彼女の案に乗る代わりに、彼女がここにくると。そういう話をしていたんだ」
「知ってるさ、月から聞いた。でも、絶対とは言っていないだろう。監視があるから抜け出すのは難しいと月は言ったはずだ」

「君は、月のお陰でここに来れたの?」
「そうだよ。彼女が私を救ってくれたのさ」
「遺産って言うのは、その財産を所有しているものが亡くなって意味を成す。君がいると言うことは、彼女は死んだの?」
「月の遺産である私がここにいるということは、月は死んでしまったのか。それは分からない。なぜなら、私は月の遺産だが、君の思い浮かべている“月”の残したものではないからな。この辺は詳しく説明する必要はない。月という種類だと思えばいい。人類と一緒さ」
「人間みたいにたくさんいるってこと?」
「そういう解釈で良い。だから、私がいるからと言って月が死んだと決めつけるのは早い。しかし、死んでいないとも断言はできないな。見張りの目を盗んで逃げだしたことがばれて捕まれば、どうなることやら。あの子はセナセを攻撃するための兵器だから、そう簡単に壊されることは無いと思うけれど、月の脅威をもたらすものと判断されれば、首を落とされるのは早いだろうね」

 コントローラーを床に置き、立ち上がる。そろそろ時間だなという声で視線をあげると、短針は八を差していた。じっと見つめる彼女の瞳に色は無い。ビー玉をはめ込まれたかのように透明なのだ。

 僕は手に持った鞄を床に放り、ベッドに腰掛けた。ネクタイを緩める姿を見て、彼女は目を細めて笑みを浮かべた。
「なんだ、馴染めていないんじゃないか」
 ほくそ笑むような声だった。「村の人たちから変わり者の目で見られるわけだ。いや、それは月と接するようになってからか。だが、いつかはそんな日が来ていただろう。凡人の皮を被っていてもいつかは剥がれる。現実に馴染めないお前が、夢の中でも上手くやって行けるはずがないだろうしな」

 勢いで行けば部屋を出られると思ったが、そんなものを僕が持ち合わせているはずが無かった。朝起きて、服を着替えて、顔を洗って、朝食を食べて。そんな生活をしていたのは、いつのことだっただろうか。まだ数回しか着ていない制服からは、新品の匂いがする。

「きっと月は、これを見越して私をここに寄越したんだろうな」
 呟くようにそう言った後、僕を見下ろすように目の前に立った。すらりとした体は細い。日の光を浴びたことがないと言わんばかりの白い肌は、服と同化してしまいそうだ。貸した黒いカーディガンがよく映える。

「私を檻から出してくれた月には恩がある。月は私に、お前を救うように言った。だから君に問おう。イオリ、君は何を望む?」

 この時だけは、月の遺産が、湖にいた彼女の姿と重なった。同じ瞳で僕を見ている。大切な話をするとき、彼女はそういう目で僕を見るのだ。でも、目の前にいるのは求めている人ではない。僕の求める彼女がいてくれれば、この部屋から出ることが出来ていたかもしれないのに。

「君が望むものを何でも叶えよう。名誉でも、金でも、時間でも、何でも与えられる。お前が望むなら街を消すこともできるよ。特定の人だって構わない。存在から消し去ることだって容易い。さ、どうする? お前は、世界をどうしたい?」
「……世界なんてどうでもいい。月がいない世界に光は無いよ。だから僕は、月が欲しい。彼女をここに連れて来てよ、月の遺産」
 月を取り戻す方法、これしかないと思った。月の遺産は何でも叶えると言った。二言はないだろう。見張りが厳しくたって、たとえ月が拒否をしたって、月の遺産は僕の願いを叶えてくれる。その言葉に嘘偽りなければ、その願いで僕の望みは叶えられる。

「……いいだろう。叶えてやる。他にはない?」
「君は目障りだから、消えてほしい」
 端的にそう告げる。彼女がここに来てくれれば、月の遺産はもういらない。全てを手に入れられる力があっても、僕の居場所が増えるわけでは決してないだろう。元々多くの人と話すのが得意ではないのだ。例えば、たくさんの人に話しかけられるほどの交友関係を求めたとしよう。初めの頃は誰かに求められていると思えて嬉しいかもしれないけれど、いつか気疲れしてしまう。一人になりたい、そう思う時が来れば僕はまだここに戻ってくる。結局、元の僕に戻ってしまうのだ。
 彼女がいてくれれば、きっと他のものを求めなくて済む。

「それ、何度も聞くが本当にいいのか? 月の遺産を手放すということは、十億の宝くじを捨ててしまうこと以上の大損だ。私がイオリの傍にいるだけで、イオリは大きな力を手にしていることになる」
「僕が持っていても宝の持ち腐れだ。なら、他の人の手に回った方が良い」
「その人が良いように使うかは分からない。もしかしたら世界征服を目論むかも。私の手に掛かればそんなことも簡単だよ」
「それでも構わない。彼女がいてくれるのなら」
 けたけたと笑い声がした。目の前の彼女は白い歯をむき出して、心底楽しげであったが、それ以上に不気味さを感じ取れた。
 そうして、彼女は姿を消して。翌日、月が落ちてきた。



 酷い夢を見た後のような疲労感を抱えていた。全く寝た気がせず、二度寝に踏み切ろうと寝返りを打つが、頭の中を巡るもやがそれを阻む。体の位置は気に食わず、布団のしわも気になる。窓から差し込む光の位置は高く、そろそろ昼近いことを差していた。昨日は日付が変わる前に就寝した、そろそろ起きないと今度は寝すぎで体が重たく感じてしまうだろう。ゆっくりと体を起こすが、すでに手遅れだった。

 ──そぉら、言わんこっちゃない。
 耳元で聞こえた声に顔をあげるが、部屋には誰もいない。何度も聞いてきた声だった。僕がいなくなってほしいと望んだ彼女の声。
 虚空を睨みつけて、その姿を警戒する。部屋の隅、ベッドの下、天井、どこかにいるかもしれない彼女を見つけ出すために顔を動かす。

「イオリ?」
 背後からの声に、ベッドの下を覗いていた顔をあげる。
「なにしてるの? 何か落とした?」
 小首を傾げているのは、ミヅキだった。同じようにベッドの下を覗くが、何も無いよ、と顔を向けてくる。当たり前だ、こんな場所に彼女がいるはずはないのだから。
「……いえ、なんでもないです。物音がしたから、何かいるのかなと思って」
「物音? ねずみとかってこと?」
「うーん……いや、僕の勘違いかも」
 ねずみ捕りを置いておこうかという彼女の言葉に首を振り、立ち上がる。

 ご飯の用意ができたらしく、みそ汁の良い香りが漂って来ていた。彼女の手を借りてリビングへと向かう。左腕を無くして体のバランスが取りづらいためふらふらと歩くことが多かったが、最近は一人でも難なく歩けるようになった。それでも寝起きに手を貸してくれるのは彼女の厚意だ。
「今日、ちょっと隣町に行こうかと思っているんだけど、イオリも一緒に行く? 運動がてら行く距離ではないんだけど、体を動かすにはちょうどいいかなと思って」
「一緒に行きます」
「分かった。じゃあ、昼からね」

 先に昼食を終えていたミヅキは、キッチンで洗い物を済ませる。そうして、飾られた写真の前の水を変えて手を静かに合わせた。僕が助けた少年。助けたけれど、少年の顔は写真でしか見たこと無い。水の横には、おはぎが一つ置かれていた。
「弟さんは、おはぎが好きだったんですか?」
「うん、おばあちゃんが作ってよく送ってくれていたんだ。二人しかいないのにこれくらい大きな容器に詰めてくれるんだけど、カナタがほとんど食べちゃうんだ」
「……カナタ?」
「弟の名前、カナタって言うんだ」
 その名前を思い出すのに時間が掛かってしまった。その間に彼女はキッチンを拭き上げ、冷蔵庫の中身を確認している。

 ──カナタ。
 もう何年も前に会うことのなくなった夢の世界で出会った少年の名前だった。小さな村で子供は僕とカナタしかおらず、毎日一緒に遊んでいた。月が落ちてきて、僕が頻繁に湖に通うようになるまでは。
 村の人に嫌われている月の彼女と話すのはやめておいた方が良い、イオリまで変な目で見られるよ、そう言われても湖に行くのをやめなかった。
 ちゃんと話せば分かり合える、僕がそう言ったあとカナタは、「分かり合えたら、苦労しないよな」とぽつり呟いた。もし分かり合えるなら、分かり合えるまでどれだけの時間が掛かる? カナタはそう言いたそうに表情を歪めている気がした。

 結局その後から、夢の世界に行けなくなってしまった。何度寝ても何度祈っても、見ては消えていくだけの儚い記憶を見せつけられる夜が来た。
「……カナタは、何歳くらいだったんですか」
「君と同じ十八歳だよ。写真のカナタは小さいんだけどね。これしかなかったんだ」
 写真には、幼い頃のカナタとミヅキが写っている。家の前に立つ二人はピースを作り、満面の笑みを浮かべている。カナタの顔に見覚えは無かった。

「そういえば」濡れ布巾を絞りながら口を開く。「小さい頃はカナタと一緒に近所の子と遊んでいたんだけど、その時に、いつも遊ぶ友達がいるって教えてくれたんだ。誰なのって聞いたら、隣に住んでる男の子だって。隣の家は随分前に空き家なんだけどね。いわゆるイマジナリーフレンドってやつかなと父さんと母さんが言っていたから、深くは言及しなかったけど、確かその子の名前がイオリだったよ。本当にいたのかもしれないけれど、同じ名前の子に助けてもらえるなんて、運命かもね」
 白い歯を覗かせたミヅキの笑みは、あまりにも楽しそうだった。彼女の顔、そして写真のカナタに視線を向ける。どれだけ見つめても、長らく出会っていない友人の顔を思い出せなかった。

 食事を終えて食器を片付けたのち、身支度を整える。寝起きで顔を洗っていなかったことに気づき、水道の蛇口を捻る。冷水が肌をきゅっと引き締める。
 ──君のせいですべて台無しだよ。
 また聞こえた声に顔をあげて振り返る。やはり部屋には誰もいない。息が吹きかかるほど近くで聞こえた気がして耳に手を当てる。生温かい感覚が今も残っている。
「だれ、だ」
 問わなくても誰なのかは分かっていた。そんなことを言うのは一人しかいない。けれど、それが月の遺産であるわけが無かった。月の遺産は既に手放したのだから。

 ──君のせいで月は死んだ。
 その言葉を否定できない自分が嫌だった。月は、彼女は死んでなんかいない。この地球の何処かにいるはずなんだと言い返すことが出来れば良かったのに、僕の今の口ではそんなこと言えなかった。
 ──月を探す、だって? 結局お前は諦めて、身投げしたじゃないか。
 何も言い返すことが出来ず、ただ奥歯を噛み締める。脳に直接響く声に構わず部屋を出て玄関に向かうと、既にミヅキが立っていた。
「おっ、じゃあ、行こうか」
 ──街に戻らないのか? 街を置いて行くのか?
 無言で靴を履き、つま先で地面を叩く。降り注ぐ光を追って視線をあげれば、白い太陽が見下ろしている。空は灰色だ。「今日はいい天気で良かった」とミヅキが言った。

 白月症が進んでいた。既に景色は無彩色だ。色覚を失う病の進行は眠っていても止まることは無い。あんなに鮮やかに見えていた海も空も緑も今は灰色で、恋しい。失うのが色だけで良かった。眩しささえ無くしてしまった時、僕は何を頼りに歩いて行けばいいのか分からない。

 ──まあ、約束も守れない君が街に残ったって、街は生き返ったりしない。いてもいなくても変わらないさ。ただ君がいなくなってしまえば、街は本当に死んでしまうね。

 けたけたと笑う声が遠くなり、やがていなくなった。
 ミヅキの背中を追って、隣町へ向かう。以前は電車に乗っていたそうだが、電車が走らなくなった今は徒歩で向かっているらしい。片道一時間の道のりはただただまっすぐで、海外の荒野を想起させた。

「そういえば、ずっと聞いていなかったことがあるんだ」
 残り半分の道のりになった頃、ミヅキがそう言った。僕に合わせて歩幅を調節してくれているからか、彼女はまだまだ余裕そうな表情をしていた。
「イオリが人を探していると言うのは聞いたけど、その探している人って、どんな人なの?」

 どんな人、と聞かれて彼女の姿を思い浮かべる。しかし、カナタの時と同じではっきりと思い出すことが出来ない。湖に浮かぶ彼女の姿を思い浮かべることは出来ても、顔がはっきりと見えない。白く淡く光っているように見えるのだ。それでも、彼女の声はいまだにはっきりと聞こえる。

「……飄々としている、というのは少し違うけれど、いつも自信ありげな顔で話しかけてくれました。僕をおちょくって楽しんでいるような人で、本当か嘘か分からないことを自信満々で教えてくれて。怒ったり悲しんだりすることは無かったけれど、それでも、分かりやすい人ではありました」
「表情が豊かな人だったの?」
「豊か、というか……目に見えて分かりやすかったですね……」
 彼女の瞳は、感情に合わせて変化する。いつもは穏やかな青色をしているけれど、裏で何かを隠している時、瞳は赤く燃えた。紫、黄、青緑、時様々に変化した瞳の色のことを、彼女は知っているのだろうか。

「じゃあ君はその子におちょくられて、嬉しかったんだね」
「へっ?」
 彼女の声に間抜けな声が出てしまい、片手で口を覆うが既に遅い。いたずら気に笑うミヅキは目を細め、頬をあげてみせた。
「そういう子が周りに一人でもいると楽しいよね、きっと。誰にも気取らないと言うか、分け隔てなく話すというか」
 もし彼女の元に人が訪れたとき、彼女は僕相手と同じように話をするのだろうか。桜の木の下に死体が埋まっている話、亡くなった人を海に流す話、僕にしてくれたことすべてを、別の人にもしてしまうのだろうか。

「確か約束をしたんだよね、また会おうって」
「はい。会おうって言うか、彼女がここにきてくれるっていう約束でした」
「我慢できずに探しに来ちゃったわけか」
「あれから二年も経ってますし、ずっと待っていても会えないと思ったので」
 月は落ちた。僕の街を残して、周囲の街を破壊して。それは彼女が、僕がいる街を分かって落ちてきたということにはならないだろうか。
「……でも、もう見つからないと思っています」

 身を挺して地球に落ちてきた彼女は、街を破壊したまま、姿を見せなかった。二年待っても彼女は現れず、街を練り歩いても残された街に彼女はいない。彼女がいないことを告げられているような気がした。
「この辺りは月が落ちてから、人がいなくなってしまった。みんな白月症で色が見えなくなるのが嫌だから。残された街で暮らす人々の中に、彼女はいなかった。もう探すところはなくて、あとはもう、海の中くらいで」
「……だから、君は……」
 言うべきではないと思った。ミヅキの弟を助けたのはそうしたいという意志があったからではなくて、偶然、彼女を探して海に入ったときに助けることが出来ただけで。本当は彼女なんか探していなかった、そんな言葉の奥まで見透かされてしまいそうな焦りに駆られる。しかし、言葉の後をミヅキは言わなかった。代わりに、明るい声で話し始める。

「私はずっと弟と一緒に暮らしてたけど、小さい頃は父さん母さんも一緒に居たんだよ。でも二人とも、私たちを置いて家から出て行ったんだ。宗教にのめり込んだらしくて、私たちが邪魔だったみたい」
 空を見つめるミヅキの瞳は輝いていた。
「いつか迎えに来るからねって言ってくれたけど、もう十年も来てくれていないから、そんな日は来ないと思ってる。親が出て行ってからは、みんなの変わりようがすごかったよ。親に捨てられた子だーとか、子供も宗教に関わっているんじゃないかーって、変な目で見られるようになった。昨日まではそんなこと無かったのに、急に変わっちゃうんだってびっくりしちゃった。その時は我慢するしかないって思っていたけど、今から思えば、ちゃんと話していれば何か変わったのかなって。私たちは何も知らないってさ。でも、何も分からなかったから、私たちは何も言わなかった。ただ、両親の言葉を信じて待っているしかできなかった。だから、イオリが行動できてるだけですごいことだよ。会いに来てくれないなら会いに行けだなんて、これっぽっちも考えなかった」

 言葉一つ一つがポンと跳ねて、音もなく地面に落ちる。彼女の中でも割り切れている事なのか、すらすらと語られる過去が小説のように頭の中に入り込んでくる。
「私も探しに行ってみようかなー、両親のこと」
「……両親のこと、恨んではいないんですか」
「なんで一緒に連れて行ってくれなかったんだろうとは何度も思ったよ。でも、……多分、信じていたんだと思う。絶対に迎えに来てくれるって。子供が嫌いな親なんていないって考えていたんだろうね。不思議と絶望感は無かったよ。大きくなるにつれて達観するようになっただけ。ああ、捨てられたんだなって。親を恨むという感情を抱くならきっとその時だろうけど、今更だよなーって」
 終始笑みを浮かべて話すミヅキが、月と重なった。どんな時でも楽しそうに話してくれた僕の光。だけど今見えている笑みは、ただ単に楽しいを表しているのではないのだろう。
「両親はもう、私たちのことなんとも思っていないと思う。だから、私はその子が羨ましいよ。だって、君にずっと探してもらえているんだから。誰かに想われるのって、簡単なことじゃないんだよ。それほど、君にとって大切な人なんだろうね」
「……はい、僕の居場所でした」
 数回しか着なかった制服、折り目のない教科書、光を入れない遮光カーテン。だんだんと窮屈になっていく世界の中でも、彼女のいる湖だけが、暖かかった。部屋から出ない僕を心配する両親にも、顔を見せに来る晴臣にも、恥ずかしくて顔を見せられなかった。でもその中で、彼女だけが、あの僕を知らない。部屋から出られなくなったみじめな僕を知らずにいてくれる。あの世界に本当の姿をした僕はいないけれど、彼女の前だけでは一番僕らしく生きられたと思う。
 僕は今も、そんな場所を探している。

 それから二人で、これまで話してこなかった自身の過去を口にし合った。街から出なかった理由、街に残った理由、月が落ちたこと、僕の体を蝕む白月症のこと。残り半分の隣町への道は、随分短いものに感じられた。
 ミヅキと話していると、どこか懐かしい気持ちになれた。まるで、ずっと昔に話したことがあるような。もしかしたら、ミヅキとカナタが姉弟というのが関係しているのかもしれない。やはりミヅキの弟のカナタは、昔夢の村で出会った僕の幼馴染なのだろう。

 ミヅキと話した時間は離し難いものではあったが、それと同時に、彼女の言葉が僕の心を蝕んでいく。彼女を探すことを諦め、ミヅキと共に過ごすことを選んだとき、彼女の存在価値は僕の中で無くなってしまう。僕が二年間待ち続けた意味は簡単に崩れる。
 僕がいなくなった街は、死んでしまったと同然だと月の遺産は言った。誰にも探されなくなった彼女も、本当にいなくなってしまったも同然。はたしてそれは、僕がずっと望んでいたことなのだろうか。決して違う。僕はずっと、彼女と再会できる時を待っていたのだ。そう約束をしたのだから。
 そんな未来は、もしかしたら明日で待っているかもしれない。それが偽りだったとしても僕はそれを掴むだろう。本物にしてしまえばいいのだから。



「彼女のことを、探しに行こうと思います」
 帰宅後、ミヅキにそう告げた。しばらく僕を見つめた後、もう認識できなくなった色の瞳を瞼の奥に隠した。
「私の家にはいつまでいてもいいよ。調子が戻って、万全の状態になったら、彼女を探しに行ってあげて」




次話


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