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【小説】白む世界と鮮やかな記憶


前話





「イオリ、約束をしようか」

 先日湖に落ちたことをからかっている時、突然彼女はそう言い放った。秋の香りを感じてしまいそうな木々を揺らす風もその時だけはぴたりと止まって、彼女の言葉をはっきりと聞きとらせた。
 笑みは無かった。指を顎に沿えた横顔の輪郭は美しい。彼女はこちらを向いていなかった。輪郭を明るく縁取る夕日を見つめる瞳は、その色を移して橙色を宿している。

 しばらく何かを考えるように夕日を見つめた彼女がゆっくりとこちらに視線を向ける。
「私はもうすぐ月に帰る」
「どうしてわかるの?」
「声が聞こえた、月の使者の」
「かぐや姫みたいだね」
「褒めても月に帰ることは変わらないよ」
 別にそういう意味で言ったわけじゃない、と思ったが言葉にしたところで真に受けていない言葉を訂正しても意味はないことに気づいてやめた。決して彼女を褒めるつもりで言ったわけではなかった。その約束を交わせばいよいよ彼女との別れが明確になってしまう気がしたのだ。

「イオリ」

 無意識に逸らしていた視線をあげる。
「私が月に帰ることを止めることは出来ない。絶対に月に戻るし、その後イオリが暮らすセナセに落ちるよ。これは、私が決めたことじゃない、月が決めたことなんだ。だから、私にどうこうできることじゃない」
「うん」
「正直私もここから離れるのは惜しい。イオリと会えなくなるからね。月に私と話してくれるものはいないんだ。私はセナセを破壊するために使われているくらいだから、誰も私に情を与えようとは思わない」

 いつもの陽気な話し方をする彼女はいなかった。淡々した物言いは現実世界を思い出してしまう。勉強とか、将来とか。自分の意志をはっきりと示せと言われてもそれらに対する意欲が無ければ、何も考えることは出来ない。今は興味もないことについて考えろと言われても、分からないものは分からない。
 彼女と話すことの方が大切だ。でも、彼女はいなくなってしまう。僕の希望は、月に行ってしまうのだ。

「そんな彼らの言いなりになるのは癪だと思っている。もしイオリが私に協力してくれるのなら、それなりの対価を与えよう」

 淡々とした言葉の中に、強い意志を感じ取れた。それは余裕から生まれるもの。資金を多く所有する人間が話すそれに似ていた。
「対価、って?」
「イオリが欲しいものなら何でも」
「何でも?」
「ああ、何でも」
「どうしてそんなことが出来るの?」
「月の遺産を、聞いたことはある?」
 僕は首を横に振った。遺産とは、亡くなった時に遺された財産のこと。つまり、月が無くなったしまった時に遺る財産のことだろうか。
「その言葉の通り、月が遺す財産。君たちにとっては世紀の大発見になるかも。人間が月に降り立った時には発見できなかったもの。それが月の遺産。月には、まだまだ人間の知らないものが多くある。人間の手に掛かれば、きっと全てを掻っ攫うことも簡単だろうね。月はセナセほど強力な武器は持ち合わせていないから。襲われれば破滅までは時間の問題。唯一の幸運は、月は人間が戦うには不利な場所だということ。セナセからの遠距離攻撃なら、月はまだ対抗できるから」
 静かに彼女の話を聞いていた。彼女の口から語られる月の遺産のことを、僕はうつつ半分で聞いていた。夢の話だと思っているわけではないが、その話を受け入れようと頭が回らないのだ。それこそ、夢を見ているかのような。目を覚ませばこの話は忘れてしまうかもしれない。
 しかし、彼女の話が嘘ではないことは、後々分かることであった。

「本来なら月の遺産は月のものだ。月が手放すことは決してないだろうね。イオリが協力してくれるなら、月の遺産を君の元へ送るよ。それがあればきっと何でも手に入れられるよ。地位も名誉も、金だって」
「……月の遺産は、落ちてこないの?」
「月ほどの威力は無い。落ちたとて街が壊れるようなことは無いよ。セナセが月の遺産を手に入れれば、セナセに月を落とすわけにはいかなくなる。月の遺産は、持ち主を守ろうとするから。月を落としても返り討ちにされるだけ、それを月は知っている。どう? 悪くない話だと思う、悪くないどころか、そうしないとイオリの街は壊滅するよ」
「……君が月の遺産をこちらに送れる確証はある?」
「絶対にとは言えない。けど、私に協力しなかったらセナセは確実に月の攻撃を受ける。何もしないよりかはセナセを救える可能性は上がる」
「月が落ちると、セナセは粉々になる?」
「さぁ、それは。……落ちてみないと」
 首を傾げた彼女は、本当に知らなさそうだった。ここに落ちてきたときの威力は、この湖の大きさを見れば把握することが出来る。これが実験なのであれば、本番ではこれ以上の破壊力が見込まれるだろう。
 彼女の言う通り、協力に乗らなければ地球は月が落ちてくるのを待っているだけだ。乗らない手はない。

「欲しいものなら何でもくれるって言ったよね」
「うん、言った。嘘は言わないよ。月の遺産は偉大だから」
「じゃあ、セナセに来て」彼女の瞳は赤色だった。「月から逃げ出してセナセに来てほしい。セナセは君を取り残したりしない」

 夕日が落ちた後の、世界の終わりを彷彿とさせる鮮やかな紫の瞳に移り変わる。ビー玉のように大きな瞳を細めた姿は、それを隠すようだった。
「──私は、平和を脅かす存在だよ。セナセの方が私を毛嫌いするでしょ」
「君は、自分の意思で悪意になっているわけじゃないと思う。そう言われて、そうするしかないから悪意になっているんだ。環境が悪かっただけ。場所が変われば、君は、世界に必要とされる人になれる」
「それが本当なら魅力的だね。でも、私がそれを望んでいないと言えば君の計画は破綻する」
「しないよ。だってそれが、僕が君に協力する対価だから」
「私の提案は、私よりも君にとってとても有益なものだよ。私が提案しなければセナセは確実に崩壊する。君が世界を救ってヒーローになるチャンスを無しにすることだって私にはできるんだ」
「君にとって悪い話であれば初めからこんな提案はしないはず。君はそれほど、月に従うのは癪だと思っている、と僕は考えているんだけど」
 しばらく互いを見つめる時間が続いた。先に逸らした方が折れた証。それを示したのは彼女の方だった。緩めた口元から笑みをこぼし、「参ったな」と息をつく。
「月の遺産だけじゃ満足しないってわけか。まあいいよ、じゃあそれで行こう。ただ、保証率は低いよ」
「どうして?」
「月の使者の目を盗んで逃げられないから。見張り、結構強いんだよね。掻いくぐれるか分からない。でも、頑張ってみるよ。私を取り残さない世界が待っているんだから」



 水の泣く声がする。ぽちゃり、ぱちゃり、ぴちゃ。あの夢の場所の続き、いなくなった彼女がいる。
「……まって」
 ぼんやりと白けた視界で見えた、人のような影。僕を見下ろすそれが垂らす髪は滑らかで、頬に触れた髪は優しかった。手を伸ばしたけれど霧散するように消えてしまったそれは、指をかすめることすらなかった。

 額から何かが落ちる。水分を多分に含んだものが落ちる音、ぴちゃりと音がして顔を横にずらせば、自分はベッドに寝ているのだと気付いた。視線の先にある小さな手洗い場の蛇口からは、絶え間なく一定のリズムで水滴が落ちている。

 体がやけに重たい。起き上がろうとしても、鉛のように動かない。果たしてこの体は僕のものなのだろうか。指先を微かに動かしたり、体をよじらせたりしても、分かるのは布団が柔らかいことだけだ。肌と布団が擦れ合うたびに熱が生まれる。温かい。
 自然と体は布団に隠れるように丸まっていった。もぞもぞと芋虫のような動きをしながら、布団に顔をうずめる。まだ覚めきっていない瞼を夢に導くのは簡単だろう。

「──おや」
 床を引き摺るような足音が近づいてきた。
「お目覚めかな、お兄さん?」
 びくりと体が跳ねあがった。埋めていた顔を布団から出すと、部屋の向こうに一人の女性が立っていた。長い白髪は風が無くとも微かに揺れるほど細い。スタイルを隠す大きめのシャツとズボンを身に着ける女性は、壁に手を添えて青い瞳でこちらを覗いている。
「気分はどう?」
「えっと」
「あ、まだ動かない方が良い」
 そう言ってこちらに近づき膝をついた女性は、僕の背中に手を回して体を起こしてくれた。立ち眩みがしたときのように、視界が白む。ふらつく頭も押さえてもらい、申し訳なさで「すみません」と声が漏れる。
「気にしないで。しばらくは薬の副作用で目が見えにくかったり体が動かしづらかったりするかもしれない。呼んでくれたら手を貸すよ。私はミヅキ」
「ありがとうございます。僕は、イオリ」
「イオリ、食事を用意するよ」

 ミヅキは僕の頭をゆっくりと枕に落とすと、目覚めた際に僕が落としたタオルで汗を拭いてくれた。上半身を起こしただけなのに、冷や汗が止まらない。布団の優しい温もりを感じる余裕もなく、震えを押さえようと体に力を込める。
 高熱を出した時に近い体調の悪さだ。このままでは眠ることもままならないと思っていたが、寝転んでしばらくすると体の震えは治まってきた。

 どこからかトウモロコシの甘い香りが漂ってくる。
「おまたせ。やっぱ体調が悪い時はコーンスープに限るよね」
 お盆に乗せたスープをベッド脇の小さな机に置く。より濃くなったトウモロコシの香りは強く、鼻を通っただけで口の中に風味が広がったような気がした。
「完全には起き上がらないで、少しだけ。ほら」
「あ、いや、自分で」
 さすがに差し出されたスプーンに口を開けられなかった。遠慮しようと体を動かそうとするが、やはり言うことを聞かない。
「なに言ってんの、自分で食べられるようだったら介護みたいなことはしないよ。早く口を開けて」
 じゃあ遠慮しておく、とも言えず、目の前で揺れる黄色をじっと見つめた後、渋々口を開ける。もっと開けないと零れるよと言われてさらに口を開ければ、熱されたスプーンが唇に乗った。香りと共に流れ込んできたコーンスープが舌に触れると、一番に甘さを感じ取る。物凄く甘い。そう言えば温かいものを口にするのは久しぶりな気がする。

 コーンスープってこんなに美味しかったっけ。
 小さい頃に母親が作ってくれたコーンスープは甘さが凝縮されすぎて二口で食べるのをやめてしまった。それ以降コーンスープを食べることは無かったのだが、久しぶりに食べるとこんなに美味しかったのかと驚かされる。年を取って味覚が変わったのだろうか。
「……っ、ちょっ、ま」
 絶え間なく口に注がれるコーンスープに、流石に声をあげた。
「ストップ、ペースがはやい」
「え、お腹空いてないの?」
「空いてはいるけど、もう少しゆっくりじゃないと」
「食べさせてもらっておいてわがまま言うんだね?」
「いえ、そういうわけでは」
「冗談だよ。ごめんね、ちょっとまだよく分かってなくて」
 スプーンをお盆において、僕の頭を布団に優しく下ろしてくれる。言葉の意味を聞こうと口を開いたが、そそくさと立ち上がってしまった彼女に声を掛ける気力が出なかった。大人しく布団に体を預け、天井を見つめる。お腹が満たされたからだろうか、徐々に重たくなる瞼に抗えず、水の音を聞きながら眠りに落ちた。

 次に目覚めたのが四日後だと言うことは、ミヅキから教えられた。これも薬の影響だと教えられ、しばらくはこの状態が続くとのことだった。ようやく症状が収まったのは二週間後で、体を起こすことが出来るまでに回復していた。
「あの、色々とありがとうございました。迷惑かけてすみません」
「謝るかお礼言うかどちらかにしてよ。反応に困っちゃう。でも構わないよ、当然のことをしているだけ、むしろ、これだけでは足りないくらい」
 眉を下げた彼女の視線の先を追うように、自身の腕に視線を下ろす。何も通っていない左袖は風に揺れるこいのぼりを思い出させた。見つめていても生えてくるものではない。

「なんか、突然のことすぎて、どう驚けばいいのか。気づいた時には無くなっていたし、それ以前に体も重くてまともに動けなかったから、驚きが分散されたというか……」
「本当に」彼女は両膝に手を付いて頭を下げる。「本当に、弟を助けてくれてありがとう。イオリがいなかったら、体の欠片一つ残らなかっただろう。あれほど海には近づくなと言っていたのに、私の不注意もある。この恩は一生忘れない」
 深々と頭を下げた彼女のつむじを見つめる。頂点よりも右寄り、左回り。そんなところを見ている場合ではないのは分かっている。うまく頭が回っていないことだけは確実だ。

「……でも、助けようとしただけで、助けられてはいないので」
 廊下の先に置かれた棚には、少年の写真が飾られている。無垢な笑みを浮かべた少年を、ここに来てから一度も見ていない。
「イオリが飛び込んでくれた時にはもう遅かったんだとは思う。でも、ちゃんと弟と別れをすることが出来た。イオリがいなかったら、実感がないまま弟を失うところだった」

 頭を下げたままの彼女の肩を叩く。どうか、これ以上感謝しないでほしい。そんなことは死んでも口にできなかったから、彼女の視線をこちらに向けさせて、
「なら、良かった」
と、笑みを浮かべてみせた。安心したように頬を緩ませたミヅキは、飲み物を取ってくると言って部屋を出る。その隙に僕は、開けられた窓から外へ飛び出していた。

 僕の見る世界は、色を失いつつあった。白月症の症状は明確に訪れている。薬の影響もあるとミヅキは言っていたが、きっとどちらの影響かは分からないだろう。
 今日は夏の空が見られる晴天らしいが、僕には春の空にしか見えなかった。色の薄い、優しい色の青が頭上に広がっている。肌に差す熱気だけが、残暑を教えてくれた。

 助けたなんて、誰が言ったのだろうか。
 二年も待ったけれど、約束を守って彼女が現れることは無かった。どれだけ探しても、丘区周辺にはほとんど誰もいない。自分の足で歩いてそれを知った。彼女は一体どこに隠れているのだろうか、それとも、彼女はどこにもいないのだろうか。
 落ちてきたのは本当に月だったのか、彼女だったのか。丘区に戻ったところで誰かが僕を待っているわけでもなく、また僕が彼女を待つ日々が続くのだ。

 諦めるのは早いかもしれない、けれど、残された街を見れば答えは明白な気がした。残った人はいない。色を失ってくたびれた皚々たる街にいた男の人も、雨降る街で出会った色盲の女性も、訳あって街に残っている。元々その街で暮らしていた人なのだ。

 彼女の影はどこにもなかった。どこにもいないのだ。落ちてきたのは彼女ではなかった。約束は守られなかったらしい。
 丘区に戻っても何もない、戻る意味は無いのだ。だったら、どこで終わってしまっても変わりない。運よく浜の大穴に飲み込まれてしまえばいとも簡単に、──終わるはずだったのに、目を覚ますと僕は恩人になっていた。

 いつまでも夢を見すぎたのだ。彼女が約束を守って現れてくれると。守れる保証はないと伝えられていても、きっと守ってくれるだろうと思い切ってしまっていた。きっと来てくれるだろう、彼女が約束を破ることなんてないだろう。僕の居場所で、世界から取り残されても希望を絶やすことが無かった彼女が、簡単に諦めるはずがない。彼女の求める世界がここにはあるから。だから。
 そう信じていても、現実は事実を突きつけてくる。

 月の遺産は確かに落とされた。あの場所に行けなくなって彼女と会えなくなった時、きっと彼女は月に帰ったのだと思った。しばらくしてから彼女に似た面影を見つけたけれど、面影が似ているだけの他人の空似。
「やァイオリだね。話で聞いていたより冴えない男だな」
 声も姿も彼女だったけれど、話し方や性格はとことん違っていた。彼女が月の遺産だった。そう名乗ったのだ。

 遺産は、その者が亡くなってようやく意味を成す言葉だ。話を聞いていた時は疑問に感じなかったけれど、月の遺産が落ちてきたということはつまり、彼女は死んでしまったということなのだろうか。月は月の遺産が欲しいがために、彼女を取り残したのだろうか。遺産を手に入れて脅威であるセナセを破壊することが出来れば、一石二鳥だ。

 月が落ちてきて街は崩壊した。家族も友人も街から離れていなくなった。どれだけ探しても彼女は見つからない。左側がやけに寂しくなった。色彩は徐々に薄れてゆく。
 彼女のいない世界は、こんなにもつまらない。どうして命を落としたのは、少年だったのだろうか。




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