福祉の贈与

†渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』

副題は「「障害」から考える」。ちくまプリマ―新書のレーベルから出版された、その道の初学者向けの入門書ということになるだろうが、それにとどまらないコアな問題提起をぎゅっと扱っている。

よいところは、「健常者」の視点から、「障害」とはどのようなものであるかということ、それに正面から取り組み、記述しているところ。だから、「健常者」から「障害者」はどのようなイメージで現れるか、「障害」とどのように向き合えばよいか、「障害」に対する疑問はどのようなものか、という周りのことをめぐることになる。少なくとも、その視野の限りにおいてなるたけ誠実に書いた本ということはいえるとおもう(もちろんそれは障害者から見て欺瞞を一切含まないということを意味しないが)。

「障害」を考える上で、近年スタンダードな常識になっていることに、障害を、病気やケガによる個人に現れた医学的生物学的状態とみなす医学モデルから、社会と個人の相互関係や摩擦によって生まれる社会モデルとみなそうという動きのことがいえる。この本でもその考え方が踏襲されていて、ではそうすると、障害を考えること、障害の度合いが少なくてすむような社会を作ることはなぜ求められるかといえば、それは誰にとっても求められること、将来の自分自身や大切な人のための「保険」であったり、不安の少ない安定した社会のための「社会投資」である、ということがいわれる。

が、この本で強調されるのはそうした社会の側からみた障害のあり方の是非ではなく、著者が実際に障害のある当事者と付き合って、何に緊張したのか、どのように変わったのか、という体験のことに比重がおかれる。どういう人たちと出会って何を思ったのか、その詳細は読まなくてはわからないので本書に譲るが、ともかくそういうことを通して、「健常者」と「障害者」との境界は常にゆらいでいるということ、「紙一重」であるということがいわれる。で、結局それは、障害者について考えることが実は健常者について考えることであり、自分自身について考えることなのだ、と説かれる。

障害について考えること、それはつまり自分の何を見ることなのか。そのひとつに、介助をする健常者の自己承認欲求が挙げられている。介助ボランティアの人への、なぜボランティアなのか、という動機を訪ねていくうちに、「人の役に立っている自分」、そうすることでの「生きる意味」が満たされるのではないか、という期待やイメージのことをあぶりだしていく。面白いのは、そういうある種の「依存」的な関係を抱える人たちであっても、障害をもつ当事者からそれを認められること、励まされる瞬間があって、そこでは「支える側」と「支えられる側」が逆転する契機なのだ、という話が語られる。どちらが支えて、どちらが支えられているのか。その線が引きなおされるとき、それは障害者の人の側が「障害者としての身体」を差し出し、健常者の「求めるもの」や「人助けの場」を提供しているのだ、と論じられる。そうしてみると、「健常者は、深い部分では、障害者という存在を必要としているのではないか」との思いがよぎるのだと。

こうしたエピソードを語るのは、本当は不合理なことである。なぜならそのような健常者の暗い部分の欲求をよく見ないことにしておいて、社会の側での介護や介助のシステムは上手く回るようにできているからである。でも著者はそうしない。それが、社会の側からみた障害でなくて、個人と個人の関わりで障害を見て、語ることの意味である。それを「健常者」の視点から見てごまかさないところに、著者なりの誠実さといったものが見える。

この本は、著者が何人もの障害の当事者と出会い、かかわりあい、その見聞きの結果、つかんだもの、与えられたものを書く。それはつまり、テクスト自体が小さな伝記の集合体であることを意味している。伝記を読む体験を、それに描かれた生を贈与されることと捉えるなら、この本の読者はその与えられたものに報いる義務がある。それは著者が「健常者」として「障害者」に出会い、やむにやまれぬ衝動のような「ギフト」としてこの本を書いたように、である。そういう契機が果たされることを、この本は手助けしてくれるし、そのきっかけはこの本のうちにきちんと記されている、そういう本と受け取った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?