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恋のアントニム

ちょうど一年ぶりの更新になってしまった。怠惰がすぎる……。ある程度長い文章を書くのが怖いせいでもある。無知や思考がばれるから。

今日は特別な日なので、恋愛論や恋愛小説を読んでいた。小説は、少し前に話題になっていた『アステリズムに花束を』。副題は百合アンソロジー。去年の年末から読みさしだったのを、終わりまでやっと。

百合、というとそれほど熱心な読者ではないのだけれども、興味のあるジャンルではあるし、マンガやアニメを含めていろいろと視聴している。ただ、やはりどこかそこで描かれているものによく入り込めない自分がいるのも、よくわかる。それでも、百合を見ることは何か自分の恋愛や人生観を揺さぶって、それを拡張してくれるような感じを覚えずにはいられない。自分にとって恋愛の出来事とは本当にアタマのなかで混乱を極めた、それが感情と言っていいのかもわからない何かであり、だから、何よりもそれが何なのか純粋に知りたいとおもっている。だから忠実なファンとはいえないものの、ふつう思われている恋愛観やひとの気持ちの問題、規範に果敢に挑んでいる百合は、つかず離れず追っていたいとおもっている。

で、『アステリズムに花束を』。詳細な感想は綴れないけど、なかでも陸秋槎「色のない緑」が一番ビビっときた。今よりAI技術が少し進歩した数十年後の未来の話で、言語学を研究していた主人公の古い友人が自殺してしまった話を描いている。その彼女は、人工知能が決して万能でないことを証明した論文を書き上げたのだけど、その当の論文が決して完全に理解しているとは言い難い人工知能の判定によってリジェクトされてしまったことに皮肉を感じ、自殺をしてしまったのだった。主人公はそれを悼んでいるのだけど、つまりこの作品は最初から百合が不可能になってしまった地点から語られていて、主人公はそれに抵抗するために、彼女の皮肉な死をなんとかして意味づけようともがいている。詳しい展開は実際の作品に譲るけれど、その悲しみと愛情に心が打たれた。

では恋愛論の方といえば、河出書房から出ている14歳の世渡りシリーズから、『恋って何ですか?』を読んだ。小説家やアーティストなど、各界いろんな方々がそれぞれのベストな恋愛小説を薦めるブックガイドになっている。その紹介の仕方に、おのおのの恋愛観がよく表れているという仕様。

こちらは、小松左京の「握りめし」を紹介した木皿泉の文章が印象的だった。木皿は、小説から恋の対義語は、「自分を踏みにじるもの」だと述べる。恋は何か、という書物の問いに、その対義語は何かを考えることで答えようとした、遠回りではあるもののユニークな試みと言おうか。木皿によれば、国家や社会など、自分をねじ曲げてくるものの暴力に直面したとき、自分が本当に生き生きとして自分らしさを与えてくれるようなもの、そんな美しいものとの出会いが、恋と呼べるのだという。それはリアルな人間でなくても、アイドル、二次元のキャラ、自然、なんでもよいと。そういうものとの出会いが。自分の生き方を決定づけるし、希望も与えてくれる。とても素敵な考え方だと思う。

と、では自分なら恋の対義語は何だろうかと考えてしまう。これが難しくて考えても簡単には出てこない。何だか自分の生き方全部が問われているような気もするし、それに簡単に答えが出たら、悩んでなどいない。たぶん、一生かかりっきりな問いなのだろうなとおもう。初恋のひとを見て、たぶん自分はこのひとのことを一生考え続けるのだろうなとおもったことに似ているかもしれない。

恋の類義語ならいくらでも出てくる。憎しみ、恐怖、孤独、嫉妬などなど。実は、どれも自分が初めて恋をしたとき抱えていた感情だ。だから、これらは全部類義語だとおもっている。いささかネガティブであろうが。それでも、そういう感情を含めて、このひとと出会ったことで、何か自分が今まで生きてきてよかったなと初めておもったりもした。そういう感情もある。やっかいなことである。

ちなみに対義語と類義語の話が引っかかったのかといえば、太宰治の『人間失格』に、ある言葉のアントニム(対義語)とシノニム(類義語)の当てっこゲームをする場面が出てくるのだけど、その場面が強烈にアタマに残っているから。そのゲームは男同士でおこなわれるのだけど、その会話のやりとりが、まるで男の性のやりとりにおもえるような書き方になっているからだ。詳しくはまた記事に書きたいとおもっているが、だから、言葉の対義語や類義語を考えることは、自分の中でどこか性や恋のやりとりを考える回路と、どこかで直結しているフシがある。そういう理由で、木皿泉の文章にははっとさせられた。

とりとめない感じになったが、一年ぶりの更新はこのあたりで。

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