バイアスの体系としての科学

ここ最近、良質で啓蒙的な科学論の出版が多い。自然科学や科学史の方面は疎いだけに、よく勉強にもなるしありがたい。しかし「科学」ともあれば、人文学ももちろん射程に入っている話なのである。ひとごとではない。では人文学的知と科学の接点はどこにあるのだろうか。

†中尾麻伊香『科学者と魔法使いの弟子』

は、原子力をめぐる科学に、「魔法」的な体系のメタファーが使用されてきたことを明かす科学史論である。大衆の想像力と科学との結婚とでもいおうか。タイトルの「魔法使いの弟子」とはゲーテの作品から名付けられたものである。

中尾は、原子力のプロパガンダとして制作されたディズニー映画や、アメリカ海軍の原子力潜水艦がヴェルヌの『海底二万里』にちなむノーチラス号と名付けられたことを話の枕に、科学と魔法の想像力の現実での接合を論じていく。

第1章では、19世紀末のイギリスの化学者、フレデリック・ソディがフィーチャーされる。19世紀末の思想界では、心霊趣味や催眠術などに見えるオカルティズムがブームとなっていた(この辺りの事情は大野英士『オカルティズム』が詳しい)。そしてソフィが自身の原子力化学に応用したのは、そういったオカルティズムの系譜に連なる錬金術の想像力だった。元来、ニュートンが錬金術にのめりこんでいたように科学と錬金術の境界はあいまいであり、その絆は深い。ソディは錬金術を科学の発想の源とし、研究対象であった放射能を、賢者の石や魔法のランプといったメタファーを使って錬金術の体系から説明しようとしたというのである。

このとき、科学は自身を「魔法」のメタファーで説明する方法をもったのである。クラークがいうように、高度に発達した科学は魔法と区別がつかない。科学はそのようにして自らを神話化した。

そうした魔法の想像力をもった科学が大衆と接続される様子を見るのが第2章である。ここでは戦前日本の科学実験が主題となる。

科学者は、自説の正しさを主張するため、また科学の有用性を説明するために、大衆の眼前での公開実験をたびたびおこなってきた。それは科学が公共のものとして信じられていたためである。そのとき、科学者は自らの実験に対して魔術師のようにふるまった。

近代日本でこうした科学の公開実験が大きな話題になった事件として挙げられるのが、千里眼実験、水銀環金実験、人工ラジウム実験である。千里眼実験では科学と非科学の区別を証明するために、後者二つは科学の有用性を大衆にアピールするためにおこなわれたという。そのとき彼らはそうした実験をスペクタクルなものに仕立て上げ、メディアで喧伝した。彼らはそこで魔術師のような存在になったのである。

こうした科学の公開実験は、科学知識の啓蒙というよりは、科学者のコミュニティが資金を得るために、間接的なスポンサーでありパトロンである国民大衆のためにおこなわれた。科学者はそうした社会のなかの関わりにおいて自らの立場を確認し、存在意義を問うてきたのだという。ならばその科学者の存在に意義を与えるのは大衆の期待の関数においてである。科学は公開実験を通して大衆の期待の地平に答えてみせた。それは大衆の前で魔法として実演されたのである。こうした科学と大衆の関係を、中尾は共犯関係だったと指摘する。いわば、科学はうまく俗情と結託してみせたのである。

こうした記述を見ると、科学が「魔法」のレトリックで説明されてきたことや、それがSFなどの物語に表象されてきた歴史の様子がよくわかる。科学はそうした文学性とは無縁ではありえないのである。科学のなかにある「偏見」が持ち込まれた瞬間とでもいおうか。こうした科学のバイアス性を指摘するのが、

†隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』

である。隠岐は、いわゆる文系と理系の分岐の歴史を日本と海外の事例を挙げて記述していくが、歴史や地域の特殊一回的な事情を別として、文系と理系の溝を埋めがたいものにしているのが、それぞれの側の人間観によるものだと述べる。理系すなわち自然科学は世界の客観性を認識するにあたって人間をバイアスの塊だとみなすが、文系すなわち人文科学では人間を文化や政治の価値の源とみなす認識が、文系と理系の容易に乗り越えがたい溝になっているという。

自然科学だけでなく、たとえばカーネマンの行動経済学が明らかにするように、人間の認知には独特のバイアスがかかっており、それは感情と理性の異なったシステム回路のはたらきによるものだという理解が、今日社会学や心理学などの社会科学でも前提としている考えである。

だが、隠岐はこうした人間のバイアス性をさらに突き詰めてこう述べる。自然科学と人文科学の溝、そして人間のバイアスを思考に含めて重要なのは、

それでも学問的方法論に根ざして言葉を紡ぐことの大切さです。物理学のような法則定立的な方法にしろ、歴史学のような個性記述的な方法にしろ、定量的な社会学のようにその中間的なものにしろ、それは世界を認識する異なったやり方として、数世代にわたり様々なテストを生き残り、受け継がれてきた人類の遺産なのです。
 私たちはバイアスのかかったやり方でしか世の中を見ることはできませんが、諸分野の方法というのは、地域や文化を越えて人々が選び取ってきた、いわば、体系性のあるバイアスです。体系的なやり方で、違う風景を見て、それを継ぎ合わせる。または違う主張を行いながらも、それを多声音楽のように不協和音も込みで重ね合わせていく。そのことにこそ、様々な分野が存在する本当の意義があるのではないでしょうか。

たとえば多くの不確定要素を含み、問いの答えを経験的な例や効果に基づき統計的な方法で処理し蓋然的に導くことの多い自然科学では、そうした科学をより確かなものにするには、再現性があるかどうか、またより批判に晒されているかどうかといった民主的なプロセスとそれを信じる態度であり、それは「バザール」と呼ぶにふさわしいと述べる中屋敷均『科学と非科学』も、こうした隠岐の科学論と共鳴するものである。

科学はそうしたバイアスと無縁のものではないのだ。これは科学をつくるのが人間である限り避けることのできない事態である。隠岐はだから、科学の本質にそうしたバイアス性を見ている。

科学が「体系性のあるバイアス」というのは、つまり科学はそれぞれのやり方で、失敗の記述を必然的に抱えているということである。それは記述のレトリックであったり、人間の身体による限界に顔を出すといえる。

人文科学の、とりわけ文学のディシプリンがよりよい科学の定立に協力できるのは、とりわけ中尾が描いたような、ある記述にひそむ特定のメタファーだったり、特定の文脈がはらむ物語などの文学性の指摘ということになろうか(人間のバイアスが不可避的に物語に侵されていることは、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』に詳しい)。中尾や隠岐の科学論を組み合わせるなら、こうした文学の知を飼いならすことはだから、ある記述において、特定のことをうまく伝えることよりも、どうよりよく失敗するかの技術を身に着けることなのだといえるだろう。心配しなくても、その失敗を埋めるのは他者であり、その連続が科学である。だから、重要なのは失敗への信頼性なのである。そのための方法論を求める試みは、まだ端緒についたばかりである。



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