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残像

 さっと頬を風が撫でる。冷たく鋭い風は、まるで刃物のようだった。小さなショルダーバッグの他に、後ろ手に小さな紙袋を提げて、大通りの大きなオブジェクトの前で私は恋人を待っていた。あざとさのある厚手の毛糸のミトンをつけていても、冬の寒さが指に刺さる。
「待たせてごめん」
 浩一が、白い息を吐きながら歩み寄ってきた。二十分の遅刻だ。けれど、急いだ様子もなく、髪形も服装も、乱れず綺麗に整えられたままだ。寒そうに、マフラーに鼻までうずめたまま私の前に立つ。責め立てる言葉で開こうとした口を結び、首を横に振ろうとする前に、浩一は私に背を向けた。
「行こうか」
 視線だけをこちらに向ける。
(……また)
 ここのところいつもそうだ。今までは、私よりも前に待ち合わせ場所に着いていて、私が先に着いていても、それを見つければ駆け寄ってきてくれていたのに。今は、遅刻は当たり前で、口先だけの謝罪はあれど、態度が悪びれる様子はなかった。会えて嬉しいのに、掛け違えたボタンをそのままにしているみたいに、もやもやした気持ちが私の胸に燻った。喉元まで込み上げてきたそれを気づかれないように飲み込んで、うん、と笑顔を返す。
 紙袋の、細い持ち手がくしゃりと歪んだ。

 手袋をした手は独りぼっちで、私は浩一の少し後ろをついて歩く。いつの間にか隣を歩くことにさえ引け目を感じるようになってしまっていた。
「チケット、もう買ってあるから」
「うん、ありがとう」
 そんな些細な言葉を二言三言交わせば、後は黙って目的の場所まで歩くだけだ。形式だけのデート。外殻だけの恋人同士。

 クリスマスという、世の中の恋人や家族にとっては特別な日のはずのデートは、滞りなく進んだ。公開日の終わりそうな海外のラブロマンス映画を観て、浩一が予約してくれていたホテルのレストランでディナーを食べながら映画の感想を言い合う。私は恋人の墓に酒を掛けて隣で酒盛りをしながら話し掛けるラストシーンを涙なしには観られなかったと言ったけれど、浩一にあんなお涙頂戴のありきたりな結末では感情移入できないと一蹴された。たまたまその映画に出てきた洋酒がメニューにあったからと頼んで味わっている最中にそんなことを言われ、口の中のそれは一気に味を失くした。それからは当たり障りのない話題だけを選んで会話を続けた。デザートを食べ終えてから、私は用意していたプレゼントを手渡した。その場で浩一は包みを開ける。「ありがとう。何かな」とうっすら端を上げた口では言いながら、大して期待していないのが目の奥に透けて見える。毎年同じはずなのに、目にはわからないほど少しずつ移り変わって、今年はまるっきり変わってしまった私たちの前に、包装紙を丁寧に開く浩一の几帳面さだけが変わらずにあった。
 小さな包みの中には、艶のある革のキーケース。おっ、と一瞬だけ驚いたような、嬉しげな表情を見せて、私の目の前で鍵を付け替えた。そんな小さなことですら、今は珍しいと感じてしまう。そしてその珍しさに少し心が躍り、嬉しくなってしまう自分を恥じるのだ。

***

 周りを同じ方向に、あるいはすれ違って歩く恋人たちに中てられて、浩一の左手に手を伸ばす。地面に映る二人の影は、昔みたいに手を繋いでいた。何をやっているんだと、俯きがちのまま口の端を歪める。下を見てばかりいたからか、いつの間にか本物の浩一の手に触れていた。無意識に握ってしまっていたことにも気づかなかった。「あ、ごめんね」そう言って手を離そうとしたが、浩一は嫌がるそぶりを見せない。ただ、反応も見せず前を向いて歩き続けるだけだ。その手は自然に繋がれている。けれど、握っているのは私だけ。不愉快な気持ちになることはない代わりに、楽しいと心から思えはしない。それでも、こうして待ち合わせをして二人で出掛けるときには、私たちの間に欲にまみれた熱が生まれる。何も言わなくとも、浩一の行く先はわかっていた。

 人でごった返したホテル街の中で、恐らく唯一空いているラブホテルにチェックインした。クリスマスに浮かれているはずの恋人や、行きずりの人たちが入っていないそこは、やはりというべきか、内装も安っぽいデザインで、古びたつくりだった。入ってすぐにアメニティの場所や家具の配置をざっと確認して、二人で向かい合って入って丁度良い大きさのバスタブに勢いよくお湯を入れ始める。浩一はベッドに寝そべり、私はソファに腰をうずめて、適当なチャンネルに合わせたテレビを、会話もせずに眺める。画面が切り替わって、ローカル局のコマーシャルが流れ始める。陳腐な作りのそれを見る気にもなれず、ふいとベッドに視線をやると、浩一も私を見ていた。深いソファから起き上がって、彼のいるベッドに潜り込む。どちらからともなく互いに手を這わせ、顔を近づけると浩一はふいと頭を下げ、胸元に顔をうずめた。
 簡素なセックス。形だけ、表面だけ、私を愛しているふりをする。乾いた私の中に無理矢理捻じ込んで、快楽を求めるだけだ。それでも、私は次第に潤って、シーツを汚すほど濡れてしまう。蓋をした心の代わりに、身体が彼を欲している。それをまるで他人のセックスを眺めるように、冷めた思考で笑っていた。
「……うっ」
 微かな呻き声とともに、乱暴なピストンが止まった。細身だけれど筋肉質で重みのある彼の身体が脱力して私に覆い被さる。肌を擦り合わせた外側とは裏腹に、私の中にいる浩一は、自分の存在を主張しながら力強い脈動を繰り返す。その動きも熱も感じられるのに、一ミリメートルにも満たない障壁に阻まれて、私たちは繋がれない。肌は触れ合っているのに、彼の重さを確かに感じるのに、心はどこまでも遠かった。
 薄っぺらいゴムの中にすべて出しきったあと、それをゴミ箱に投げ捨ててすぐに眠りに落ちた浩一を起こさないように、私はそっとベッドから降りる。湯を張ったのに結局二人で浸からなかったバスタブに、シャワーで軽く流した身体を浸す。彼に愛された余韻は熱に融けて私の身体から流れていく。彼に触れられていた感触がじわじわ失われていき、感覚が鈍くなったのを感じて、私はゆっくりと目を閉じた。

***

 小晦日、きっと、私には忘れられない小晦日になってしまったこの日、私たちの間で辛うじて繋がっていたものがすべて崩れ去ってしまった。気づかないようにしてくれるのならば気づかないでいようと思っていたものを、浩一は隠し通せなかった。よくもまあ一度にこんなにぼろを出すものだと感心してしまうくらいに、それは誤魔化しのきかないものだった。
「ねえ、これ、何なの」
 言い逃れのしようがないほど明らかな裏切りの証拠は、私に震える声で浩一を責めること以外を許さなかった。彼は私の方を見ようともしない。私なんて初めからここにいなかったように。
「ねえってば、浩一!」
 沈黙に堪えきれずに叫ぶ。
 チッ、と、舌を打つ音が聞こえた。瞬間、勢いよく頬を打たれて、私は耐えきれずよろめいた。後頭部をカラーボックスの側面に打ちつける。元々物をたくさん置いているわけではなかったカラーボックスは、私の勢いと自分の軽さでぐらぐらと揺れた。ぱりん、と何かが割れる音がした。そしてすぐに、むわりと頭痛を誘発するような甘ったるく濃い匂いが立ち昇る。
「……変わったよ、おまえ」
 私を打った手を逆の手で押さえて、静かに言い放った。
「もう、いい。うんざりだ。お前にはもう会わない」
「浩一っ……」
 鈍く痛む重い頭を必死に動かして制止する私には目もくれず、要らないものはごみ箱へ投げ捨て、元々少ない荷物を大きなリュックサックに乱暴に投げ入れて、浩一はリビングを出て行った。すぐに玄関のドアが開く音が聞こえる。縋りつく間もなかった。ひとりきりになってしまった部屋に、まるで私を嘲笑うように、玄関のドアが閉まる音が無慈悲に響いた。

 散らかってしまった部屋の隅を片づけようと、頭を押さえて立ち上がる。クリスマスにあげたばかりの、浩一の好きなブランドのキーケースがごみ箱に捨てられているのが、真っ先に視界に入った。ぼろっ、と涙が両目から溢れた。思わずそれに伸ばそうとした手はもう何も掴めない。二人で過ごしてきた記憶は何もかも塵のようになってしまった。ほんの一瞬つついただけで、あまりにも呆気なく瓦解した。私たちが過ごしていた空間は砂の城のようなものだったのかもしれない。私たちが過ごした時間は、断片の寄せ集めだったのかもしれない。一度崩れてしまえば、もう二度と同じように積み上げることはできない。

 私の面影の残るものは捨てて、荷物をまとめて出て行った浩一が唯一残していったのは、私がプレゼントしたマフラーだった。手芸が趣味の友達に教わって、何度もなんども縫い直した手編みのマフラー。
 「ありがとう。大事に使うよ」
 その言葉通り、何年も大切に使い続けてくれた。ところどころ解れてしまっていたし、色も少し褪せていたけど、それでも毎年嬉しそうな顔で身につけてくれていた。きっと、捨ててしまうにはあまりにも思い出が多すぎたそれを、持ち帰ることもできず、首元を寂しくしたまま浩一は部屋を去った。

 涙で腫れあがった目を閉じて、持ち主に置いていかれたマフラーに顔をうずめる。群青色のマフラーは、それのよく似合っていた持ち主を待ちわびて、微かな匂いを纏っていた。

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