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ラヴ・インターネット

( 画像引用: https://x.gd/e0KiC )


「ゲームばかりをしていると、ゲームの世界と実際の世界の区別がつかなくなりますよ」

―――― 精神分析医 藤田博史先生の言葉である。私は現在 大学で藤田先生の講義を受講していて、精神病と呼ばれる現象のお話を様々に聴いている。
ゲームはとっても楽しいですよね。脳の報酬系がグングン機能して離れられなくなる。成功すればするほどのめりこんで、食事も忘れちゃう。そうやって、ゲームの世界と実際の世界の区別がつかなくなる ――― ?


皆さん、SNSのアカウントはいくつ持っていますか? 私は大体、1つのSNSにつき1‐2個。それぞれ投稿する内容は分けていますか? 私は分けています。

各アカウントで見せる私の側面が異なるということは、本来万華鏡のようにグラデーションのあるはずの私を、その一部を切り取って「単色」のように見せる、ということかもしれない。だからこそ、インターネットで知り合った単色の相手と直接会ってみたら グラデーションが垣間見えて少し印象が変化した、なんてことはよくあることなはずですね。 昨年流行したゲーム ”Needy Girl Over Dose” 内のキャラクターも、アカウント毎に一切空気の異なる投稿をしているのが印象的だなあ、なんて思いながらプレイをした記憶があります。

掲示板を含み、SNSで投稿をするときに 顔を出す必要や、本名をさらす必要はない。自分の好きなパーツ つまり色は世に出して、見せたくないものはひた隠しにできる、基本的に。声というパーツだけを画面越しに共有することも可能だし、本名や顔、学校歴なんかを全部出して 世に自身を知らしめることもできる。

私にとって、インターネットからの ”愛” はここに凝縮されている。



”愛” って… 極端だなあ… と思った方ももちろんいるだろうし、私も少し大袈裟だったかな?なんて書いてから内省している。けれど、見た目や学校歴、性別なんかの「ステータス」に囚われるしかなかった私たちは、きっとインターネットでとっても救われたと思う。自身が世界に共有したいと思った自身だけをさらけ出せる。自分の得意で皆と繋がれる。互いのコンプレックスを肯定しあえる。画面越しの誰かに”愛”し”愛”されて、「単色」の自分をも愛する…

グラデーションの自分を、自分だと思えなくなったらどうしよう。

イエローの自分がダイスキだから、パープルの自分はダイキライ。イエローの自分は愛してもらえるけど、パープルの自分は愛されない。現実の世界の私はゲームの世界の私じゃない。現実の世界の私はインターネットの世界の私じゃない。現実にいるグラデーションの私は、愛してもらえない色を持っているから、だから、ゲームに、インターネットに、ずっと居たい。 ?


インターネットに居場所を置かなくても生きられる人が少し羨ましい。グラデーションを端から端まであなただねって肯定してもらえる人だから、私や貴方のどす黒い端っこを切り取って否定しなくていい。けれど、どす黒い端っこを共有できるのもインターネットだから、それを自ら選べば いつまでもインターネットに居場所がある。


インターネットと、画面越しのあなたと 愛を共有して、命が尽きるまでイエローの自分にプライドを持っている。そういうラブも、インターネットにいるあなたなら肯定してくれますね? なんて……



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