cero「e o」〜ポストパンデミックの都市音楽〜
ceroの新譜「e o」は不思議な音楽だ。
2023年5月に配信開始となって以降、気づけば延々と聴き続けている。
朝も、夜も、家でも、外出先でも、どんな場面でも、飽きることなく。
まるで清涼飲料水のように身体に染み渡っていくこの感覚は一体何なのだろう。
元々ceroは特定のジャンルに依存しない独自性の高い音楽を作り続けているが、本作は正にノンジャンル、説明の難しい音楽だ。電子音楽の範疇ではあるが、国内外のチャートを賑わすポップミュージックとは明らかに異質であり、かといっていわゆるEDM的なビートミュージックでもない。昨今の90年代ブームに乗ったブレイクビーツでもなければ、エレクトロニカ/アンビエントとも性質が異なる。
先ずはその複雑な音楽的特徴に目を向けてみたい。
本作品に収録された曲のBPMは様々だが、その多くにおいて基本ビートの存在感は薄く、基調となるバスドラムや主音を鳴らすベースラインの存在感を意識的に絞っていて、修飾的に乗っけたタムやスネアの音の方が印象に残る。最もビートが前面に押し出されている「Fdf」でさえ、踊る事を前提としたダンスミュージック的なニュアンスの曲ではない。
少なくともこの音楽をリズムパターンでジャンル特定することはできず、さりとて複雑系の音楽にありがちな「ネオソウルやジャズやヒップホップの要素を取り入れて…」みたいな解説もピンとこない。
前々作「Obscure Ride」はネオソウル色の強いアルバムであり、前作「POLY LIFE MULTI SOUL」も基本的にはジャパニーズ・ネオソウルの範疇で捉えられるような音楽であるが、本作品はそれらとは明らかに質を異にしていて、むしろYMOから脈々と受け継がれた日本の電子音楽の系譜と考えてみた方が、何となくしっくりとくる。
使用されている音の種類としては、ピアノやアコースティックギターやストリングスのようなアコースティック系の音と電子音が程よくミックスされている。重厚な音質のものは基本使用されず、軽やかな質感の音による旋律を重ねたり、修飾的な音を立体的に乗せたりすることでサウンドの厚みを担保している。
音楽に非凡さを取り入れる手段として、ジャズのようにコードトーン以外の音を重ねるというアプローチがしばしば用いられるが、それは奇抜さや不安定さ、重々しさと紙一重でもある。
「e o」に収録されている楽曲のメロディラインやヴォイシングに目を向けると、7thや9thを多用することで独特な浮遊感を生み出す一方で、親しみやすさや軽やかさは損なわない絶妙なラインを攻めている。
楽曲の構成やコード進行も、非凡ではあるが奇異な印象はない。この辺りのバランス感覚が実に見事だ。
そして最も特徴的なのはヴォーカル。これまでの作品で度々聴かれたR&B的な節回しは抑制され、抑揚をつけないフラットな歌い方に終始し、更にファルセットを巧みに取り入れることで独特の浮遊感に貢献している。
ヴォーカルの重ね録りやコーラスを積極的に取り入れているのも特徴的で、これらの手法により生身の人間の声が発するメッセージ性が薄まり、より客観的な印象が強まる。
「e o」はヴォーカルを抜いたインストゥルメンタルバージョンが配信されている。サウンドの分析には好都合なのだが、一方でなんとも言えない違和感があって、その正体は恐らく、サウンドの作りが『歌+オケ』という構造ではなく、ヴォーカルがサウンドの一部としてあたかも一つの楽器のように成立しているからではと想像する。
このノンジャンルな音楽は、『J-POP』という汎用性の高いカテゴリーにとりあえず入れておくことになるのだろうが、そういう点でヴォーカルを核とした所謂歌モノとは一線を画している。
そして歌詞に目を向けてみると、そこに愛だの恋だのは存在せず、それどころか直接的な感情の描写がほぼ見当たらない。そこにあるのは淡々とした光景の記述であり、エモーショナルな情緒からは距離を置いている。まるで一枚の絵を見ているような、或いは一人佇んで風景に溶け込んでいるような、そんな感覚にさせられる。
これはJ-POPの中ではかなり異質ではないか。
これらの要素を丁寧に積み重ねることにより、音の厚みを構築しつつも不思議と透明度が高く、それでいて質感は人工物のそれではなく天然物の感触であり、輪郭は朧げで揺らめくような音像が何とも心地良い唯一無二のサウンドが構築された。
何か一つでも調和が狂えばこの心地良さは生まれず、厳選に厳選を重ね十二分に練られた音楽なのだろう。
決して理解しやすいキャッチーな音楽とはいえないのに、とにかく心地良くて延々と聴き続けてしまう、それは楽曲のクオリティの高さ故であろうが、それだけではなく、「e o」が2023年現在の空気にことごとくフィットしているからなのではないだろうか、と次第に考えるようになった。
コロナ禍の少し前、2010年代後半に海外において80年代前後のジャパニーズ・シティポップが再発見され、国内でも一部でブームとなった。それと共に、ネオ・シティポップとも呼ばれる一連の現代流シティポップが脚光を浴びるようになった。
「シティポップ」の概念について私自身正確に理解している訳ではないが、とりあえず都市に生きる人々の気分を反映した音楽なのだとは思う。
作り手の意図や音楽的特徴はさて置き、80年代のシティポップは、バブルに象徴される好景気の恩恵を受けた、スタイリッシュな生活を目指す若者達に好んで受け入れられた。
それとは対照的に、現行ネオ・シティポップはスタイリッシュでありつつも、何処か影があり、より内省的な印象を受ける。これは2010年代の空気を反映した結果なのだろうと想像する。
そして2020年、世界中が同時に見舞われたパンデミックという前代未聞の災禍は、都市の光景をまるで変えてしまった。新型ウイルスは多くの人々の健康を脅やかし、それ以上に不安と猜疑と絶望をこれでもかとばら撒いた。
命を脅かす感染症の流行は人々に死の恐怖を植え付け、多くの人は必要最低限以上の他者との交流を禁じられ、部屋に閉じこもる日々が続いた。
TVには、異様に閑散とした街路や空港、そして防護服に身を包んだ人間が室内に消毒液を噴霧する姿などが映し出され、SNSには感染者を特定しようと躍起になる真偽不明の情報が飛び交った。
やがて始まったオンラインの授業や会議は不慣れで歪で、一層孤独感を増した。
消毒液で滅菌されてソーシャル・ディスタンスを強いられる環境は、人々にとっても決して生きやすい環境ではなく、SNSの存在感が増せば現実世界とネットの世界のどちらにおいても地に足がつかず、ただただ心を漂流させることになる。
こうして日本の都市が有する空気自体が大きく変容し、人々は「生きにくさ」を共有した。
自分自身を振り返ってみると、現実的な問題に日々振り回され、メディア・SNS上の語気の強い情報や意見に疲弊してしまっていて、音楽から強いパッションを摂取しようとは思えなかった。主張の強い音楽を敬遠し、空気を揺らめかせるような皮膚で感じさせる類の音楽を気づけば求めていたように思う。少なくとも日常的に聴く音楽はその傾向があった。
恐らくこの「e o」はパンデミックを経て変容した人々の心に自然と共鳴するのではないだろうか。
つまり「e o」は2023年の日本における都市音楽である、と。
興味深いのは「e o」に関連するceroのインタビュー記事や各種解説に目を通す限り、彼等がポストパンデミックという時世を意識してこの作品を制作したという意図は皆無であるということだ。人々を癒すといったメッセージ性も含まず、あくまでも自分達が音楽を追求して生まれた作品であるという文脈である。
パンデミックという強烈な体験は人一倍感受性の強い芸術家達に多大なる影響を与えているはずで、コロナ禍以降に生み出された作品は多かれ少なかれ何らかの変容を孕んでくるだろうとは想像していた。それは人々に癒しを与える音楽や鼓舞する音楽など、直接的なアプローチとは限らない。
この「e o」にしても、意図せず時代を反映した音楽と相なった可能性もあるのだろう。
同様の傾向はCornelius「夢中夢」などにもありそうだ。
世界中が共有した未曾有の事態がもたらした芸術作品への影響については、これからも関心を持って追っていきたいところだが、少なくとも本作品は、後年この時代の音楽について語る上で外せない1枚になることだろう。
「e o」はまだしばらく現在を生きる私の日々のBGMであり続けそうだ。
了
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