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日本は生産性が低い?に異論あり

米国の工場で生産技術者をしています。
「日本は欧米に比べ生産性が低い」という議論がよく聞かれますが、これに疑問があります。
 
私は日本の製造現場で経験を積み、日本の「カイゼン」手法を米国の製造現場に根付かせることを業務としています。この経験上、日本と米国の製造業の特徴、細かな違いが良く分かります。
 
日本と米国、両者の製造現場に入ったとき、日本の生産性は米国より高いと感じます。これは僅差ではなく、見るに明らかな、圧倒的な違いです。
 
日本の製造現場はキレイです。製品ロスが少なく、人が少なく、設備故障も圧倒的に少ない。設備オペレーターやメンテ技術者のスキルも高い。それに比べると米国の工場現場はひどいものです。定性的な目で工場内部を見渡した時に、日本の生産性は圧倒的に高い。それではなぜ、「日本の生産性は低い」と言われるのか。それは「生産金額/時間」という生産性の定義に起因するカラクリだと私は思っています。
 
ひと言で言うと、アメリカでは効率が低いために製造原価がブクブク膨れ上がる。その結果高価な物が市場に出回ることで「生産性が高い」となってしまっている、という側面があると考えています。
 
ラーメン屋で言うと、800円でラーメンが食べられる日本に対し、米国のラーメン屋を出るときにレシートの会計が3,000円だったりすると「うわっ安っ!」という感覚があります。日本ではワンオペのラーメン屋なんてよく見ますよね。米国では見たことがありません。5人ほどのスタッフがうろうろしているラーメン屋で、一杯800円で提供するのは恐らく無理です。
 
工場の製造現場にも同じことが言えて、日本の現場は極限までムダを省く努力が徹底されている。資源が無い日本で、他国との競争優位性に立てる部分が「良く働く」こと以外に無い厳しい環境下で進んだ独特の文化なのだと思います。言わば「労働のガラパゴス」のようなものです。
 
「アメリカでは見習い寿司職人でも年収1,000万円」という記事を目にしたりします。確かに、工場の駐車場を見ていると、現場の作業員でも結構良い車に乗っていて、そういう所に米国の豊かさを感じます。「ワーキンングプア」という現象は日本独特のように感じます。ホームレスをしている人は働く意欲が無い人のみです。
 
そうすると、問題の本質は「生産性の低さ」ではなくて「分配」ではないのかという疑問が湧いてきます。ワンオペで800円のラーメンを提供する日本と5人がウロウロして3,000円のラーメンを提供する米国。効率は悪いが、3,000円のラーメンは5人の店員に給料を行き渡らす、という分配の機能を果たしているわけです。

今日立ち寄ったハンバーガーショップ。店員何人いるんだよという感じ。その結果、バーガー&ポテト2人前は18$(約2,400円)。

レッドオーシャンの価格競争、日本はそのガラパゴス的島国の中で、レッドどころか「赤黒く」なるほどの過当な価格競争を続けた結果、「付加価値が低い」と言われる職種、すなわち模倣困難性が低い職種に関しては生活を維持するもままならない低賃金設定が進んでしまった。また、ワンオペでラーメン屋を運営することは他の4人の店員が職を失うことを意味しますから、あぶれた人は定職に就くことすら難しい。
 
また、島国の中で独特の進化を遂げた生産性は、輸出して外貨獲得出来るわけではない、というジレンマがあります。それは世界で一番自己犠牲を強いて働く日本人とセットのものですから。5分毎に電車が到着する列車運行は確かに凄いものです。そのシステムを輸出することは可能でしょう。但しそれは、システムを運用する日本人とセットですから、海外の現場では実際には成り立たない。
 
こう考えると、「日本は生産性が低いから、イノベーションを加速してもっと効率を上げなければ」という議論は、課題の根本を捉えない危険な議論であるように思われます。崖に向かって全力疾走しているようなものです。疾走を加速する議論でなく、崖に向かわせないための議論をしなければ。
 
「日本の会社は生産性が低い」という巷の議論は、主にホワイトカラーの世界の文脈で語られているように思います。未だにハンコで紙の決裁が、FAXでetc. ウチの部署のオジサン達、こんな簡単なシステムの使い方もわからなくて、システムは入れたんだけど結局紙の運用も残す、っていうことになったの。何ソレ。
皆さんの勤めている会社でも、「コロナ禍の3年間、あの良く分からない間接部門は一度も現場に現れなかったけど、何の問題も無かったな。」なんてことありませんでしたか?
 
ホワイトカラーの分野は確かに、今後AIの進化に伴って生産性が飛躍的に上がるでしょう。
再びラーメン屋で例えますが、それはフランチャイズのラーメンチェーン店の本部社員を減らそう、という話ですから、一億人が年間に食べるラーメンの数は一定(むしろ減っていく)の中で、それはラーメン代金を分配する人数を減らすことでしかないと分かるはずです。
 
この構図を説明するには、これまた日本独特の進化を遂げた「軽乗用車」を例に挙げると分かり易いと思っています。これもまた資源の少ない日本にあってモータリゼーションを進めるための独特の進化でありました。
これもまた米国の工場の駐車場で見ていますと、現場の作業員クラスの従業員が、4,000ccほどのエンジンを積んだピックアップトラックなどで通勤してきます。そうすると、一億人に軽自動車を行き渡らす、という経済活動に比べ、一億人にトラックを行き渡らすことは圧倒的に「生産性が高い」わけです。その価格の総数がGDPなわけですから。ですが、「運搬する」という目的は軽乗用車でも十分達成できている。
 
ところが既存の「資本主義社会の原理」は常に経済成長を求める。そして「まだ満たされぬ需要を満たそう」。消費税を下げたり、国債をもっと発行して金をジャブジャブすれば庶民の消費意欲が刺激され、税収が上がって戻ってくるはずだ。今軽乗用車に乗っている庶民の車が全てレクサスに置き換わる日まで刺激しましょう。
いやいや、そんな日はもう来ないですよ。
 
ある意味、日本の姿は資本主義社会が行き着いた究極の姿なわけです。利潤の追求だけではなく、カーボンフットプリント、サステイナブルも考えなくてはならなくなった。それも込みでいかに効率よく、社会全体が必要な財・サービスを供給するか。その究極の成長の先にあり、世界の最先端を行っている日本。資本主義原理で世の中を成長させるにはもうこの先矛盾しかないところまで行きついてしまった。
 
そう考えると、日本には、世界の他国がまだ実現したことのない全く新しい解決策を提示する義務があるように思うのです。

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