完全に完成された不完全なドキュメンタリー:愛について語るときにイケダの語ること
首筋にもぞもぞとした感触があった。指で払うと動く感触があった。虫っぽい。
しばらくするとまたもぞもぞ。今度は捕まえた。地面に放り投げた。
しばらくすると今度はチケットを握った指先にもぞもぞ。
仕方なく空列の最前列方向の地面に強めに投げ捨てた。
ぷ~んとカメムシの匂いがマスクを貫いて香ってきた。暗くて見えなかった。5mmほどの小ささだったがカメムシだったのか…。
隣の人に申し訳なさがこみあげてきた。いや自分の所為でもないのだが。
「愛について語るときにイケダの語ること」観てきた。
誤解を恐れずに書くなら「不完全」というキーワードが思い浮かんだ。
もう少しポライトに書くなら「補う」といった言葉にした方が健全かもしれない。
主役であり監督であるイケダさんは死んでいる。
だからこそ、本人に正解を確認できない。観客が自分に問い続けるしかないドキュメンタリー。
むしろ唯一その点において、完全な作品になっている。
(基本的には)イケダさんの評価が下がることがないので、作品がその影響を受けることもない。
出演者死亡による追加撮影が不可能なことによる、欲しいシーンが撮れない不完全さ
イケダさんが作品内で遠慮として表出させていた、イケダさん自身が自分に感じていた不完全さ
愛することが分からないという不完全さ
酷くもない
悲しくもない
答えもない
敢えてどこの軸にも振り切らない。
イケダさんを酷い人だと切り取ることも出来ただろう。もっと死の悲しさを強調する切り取り方も出来ただろう。イケダさんの死や障害に対しての思いを集めてイケダさんのことが分かった気になる映画にも出来ただろう。
だが、そのどれも選ばなかった。
敢えてどれにも成り切らない事を選んだ。
そんな不完全なドキュメンタリー。
しかし、その不完全さが、この作品を感動ポルノではなくドキュメンタリーにしている。
そしてドキュメンタリーが(フィクション)<括弧付きのフィクション>であることを証明している。
愛とは何か
金とは何か
SEXとは何か
性欲とは何か
生きるとは何か
障害とは何か
性風俗とは何か
色々なことを考えるキッカケを与えてくれる映画だと思う。
上のような事を考えたことがなく、興味があれば素敵な体験になると思う。
<以下、ネタバレを含む感想。>
映画の情報を見た時、「障害を持つ男性がお金に任せて性風俗を利用する悪さ」を前面に押し出すことで、障害の有無について考えさせる映画だと思っていた。
(個人的には性風俗を利用する悪さについては保留の立場です。)
間違いなく、そう誤解させる意図がある(余地をあえて残した)プロモーションになっている。
が、実際はその面は限りなく抑えられていて、綺麗に丸められている。
ここにドキュメンタリーのフィクション性を強く感じた。
そして同時に、ココは監督の意図とどれぐらい合致しているのだろうかとも気になった。(が、監督に確認することはもはや出来ない。)
拝見したトークショーの中で、イケダさんが告白されたときのシーンについて、
『カメラの存在を忘れていたと思うか?』
という問いかけが佐々木さんから真野さんに対してあった。
真野さんは
『忘れていたと思う。素の池田が出てきてしまった。だからフィクションなのにああいう展開になってしまったんだと思う。』
とコメントされていた。
(『』は引用ではなく、概要セリフ)
自分の感想としては違うんじゃないかと思った。
確かにフィクションのカメラは忘れただろう。だが逆にドキュメンタリーとしてのカメラをむしろイケダさんは意識したのではないか。
より正確には意識すらせずにドキュメンタリーモードになったのではないか。
池田としてではなく、イケダとして何を語るべきかを瞬間的に察知して、あのような展開になったのではないか。
そこにはまたドキュメンタリーのフィクショナリティーが存在しているのではないか。そう思わずにはいられないシーンだった。
ナイトクルージングを撮った佐々木監督の流石のまとめ方によって、ドキュメンタリーについて考えさせられる素晴らしい映画になっている。
途中、この作品がこうなったことについてイケダさんが擁護するシーンが挟まれているのも興味深い。
『この作品の中のダークな自分の部分をリアルとして出すのかフィクションとして出すのかも任せる。どうなっても真野君が作ったものは俺がやりたかった事だ。』
どうしても自分はひねくれているので、作品の外側から鑑賞してしまうので、このような感想になってしまうが、素直に作品内容を受け止められる人にとっては、たくさんの事を考えさせられる作品にもなっていると思う。
作品でイケダの死を悲しみ、涙が止まらないという方も少なくないようだ。
映画が内包している「生死」「愛と金と性」「障害」全方位に対しての主張という多様性と、ドキュメンタリーについても考えられるという多様性が重なり合った素晴らしい作品だと思う。
上映後に、真野さんと佐々木さんに聞いてみた。
「池田さんがもし障害を持っていなかったら、この映画は成立したと思いますか?」
二人ともNoということだった。
『ステージ4のガンと障害というフル装備だから』
『それが武器になるという事に気づいた点も含めてやっぱり池田さんの企画なんですよ。』
とのことだった。
だとすると、やはり障害とはなにか。考える必要がありそうだ。
パンフレットには真野さんが時系列にまとめた当時の記録メモがある。
まずはパンフレットを見ずに鑑賞することをお薦めする。
そして、見終わった後パンフレットの内容と記憶を重ね合わせる。
二倍三倍に体験を増幅してくれるパンフレット。そしてそれを前提にした映像の作り方。流石。
さて、この文章の冒頭のくだりはフィクションだろうか。