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《批評》という語のイメージ

《批評》とはある対象の価値、それをどのようにとらえるかという基準を示すひとつの指標である。誰もが「そうだ」と首肯できる根拠が感じられないと独りよがりのただの感想に埋没してしまう怖さがつきまとう。

 芸術作品でも人物でも、またある時代でも森羅万象すべてが批評の対象になりえる。批評は批判や批難ではない。批評しようとする側が、その対象を語りたいと選ぶ時からすでに批評は始まっている。批評家はなぜそれを選択したのかという「自分」とまず向き合うことになる。このように色々な人が様々な場面で語り継ぐことで作品や対象が独立していって、時代を生き伸び、作品自体に命が吹き込まれていく。

 芥川賞作家の朝吹真理子さんが、演習科創作コース批評コース合同会で、自身が小説と絵を表現することについて語っていた。作品完成に至る95%くらいまでは文章化されるか絵になるかはわからないそうだ。作家や作者の作り手側からは、内在する悶々とした作品に至るエネルギーは詩歌でも小説でも音楽でも、また写真や映画、演劇、美術などあらゆる種類の表現に昇華する。ゆえに批評は何に対しても対象になる。

 批評は作り手と受け手の橋渡しをする。

 たとえばピカソの一枚の絵を見てどのように自分で評価していいか不安になる場合の判断基準が示されることになる。つまり自己判断を放棄して世の中の価値基準を借用して安心できてしまうという妙薬でもある。同じものを見てもその時の気分やその時の心の余裕で見え方は異なる。花の美しさは絶対的であるのに対して人間の感性は流動的で気まぐれである。ことばが物の見方を指南する例としては、清少納言『枕草子』の春の段の描写は分かりやすい。批評の最たるもので日本人の物の見方や感性を共有するほど影響力を持つ。読み書きそろばんや門前の小僧の時代、漢詩に親しむ素養は感情の発露をことばから先に体得する効用のためだと聞いたことがある。

 批評したいと思う対象が見つかった場合、歴史の風雪や時代の荒波を超えたその対象に対する見方や考え方に寄り添いつつ、自分なりきの「見え方」を添える意識で小説を著すように自分のことばで表現することが《批評》の第一歩であると思う。自分を出したいのであればキャラを出し作家性を全面に表すことだ。表現することは全て批評と括ってもいい。批評家がインフルエンサーであれば、その人の考え方や物のとらえ方が批評としてその瞬間には影響力を持つ。時間のふるいにかけられて、最後には誰にも迎合することのない《批評》こそが文明の底辺を支え続けることになる。