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幸福論考 3/n ~自己否定~

 自分が、自分で思っていたより大した人間ではないことが、自分でわかってしまったとき、言葉に表せない落胆や、失望に浸かることになる。

 それを受け容れられるぐらい強くあれればいいのだが、それまでの人生に育ててしまった虚栄心や傲慢さ、卑屈さなどが複雑に絡み合い、"怒り”とか"妬み”とか"憎しみ”とか"自嘲”とか、歪んだかたちで表出されるのもしばしば。

 これらの根っこはすべからく「恐れ」である。

 「恐れ」は大体その他の悪徳の根っこである。

 争いや諍いが起きてしまうときも、だいたい原因はどちらかの、もしくはどちらともの恐れである。
 ということは幸福に向かうには是非ともこの「恐れ」を手放す必要がある。

 そのために必要なものは勇気だろうか。
 それはまさしく。そうだろう。
 そもそも何かを恐れても、その恐れている何かを防ぐことも、その何かが無くなることもない。そしてその恐れていることは、実際のそのものより自分が自分の内で徒(いたずら)に大きくしてしまっていることがほとんだ。その恐れているものはけして遠くから眺めたほど恐ろしいものではない。
 だから勇気を持つことで、恐れのほとんどは解消される。

 ただその勇気を持つことがそもそも難しい。と思う人もいるだろう。

 そういう人に推薦できる方法が「謙虚になること」である。

 この方法は勇気を持って恐れに打ち克つ!ような力強い方法がしっくりこない(僕のような)人に向いている方法だと思う。
 何故なら目的は「恐れに打ち克つ」のではなく「恐れを手放す」ことだから。

 では何故「謙虚になること」が「恐れを手放す」ことに役立つのか。
 法学者・哲学者・政治家であるカール・ヒルティは次のように言う。

謙虚とは、自分を実際よりつまらぬものに見せかけることではなくて、自分について真実ありのままに考え、そして語ることである。

『幸福論(第二部)』カール・ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳 ワイド版岩波文庫 p342

 謙虚は卑屈とは違う。

 「謙虚になる」とは卑屈にも傲慢にもならず、自分自身のことを正しく見つめることである。

 正しく謙虚になれたとき、自分には相応しくないもの・そぐわないものを望んでいたことがわかったり、全然価値のない見せかけだけのものを求めていたことがわかったり、良い意味で自分の不足している部分がわかったりする。

 「自分が大した人間ではなかった」ことがそうでもなかったことがわかったり、もし本当に「自分が大した人間ではなかった」としても、別に構わなくなる。
 「自分が大した人間ではない」とは、「こうありたい・こうあるべき」像に対して自分が不足していることを直視できないがために生じる自己否定だ。そして自分を否定するのは怖いものだ。だから恐れが生まれる。
 しかし、正しく謙虚になる=つまり、卑屈にも傲慢にもならず自分を見つめることが出来れば、自己否定は起きない。理想像と現状の距離が正しく測れる。もしくは理想像の方が間違っていたことがわかったりする場合もある。そこでは恐れは生まれない。もし、いったん生まれたとしても必ず手放せる。

<参考文献>
『幸福論(第一部)』カール・ヒルティ著 草間平作訳 ワイド版岩波文庫
『幸福論(第二部)』カール・ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 ワイド版岩波文庫


 

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